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私は美しい放任主義を貫きたい

私には16歳(11th grade)と12歳(7th grade)の息子がいる。

彼らはアメリカのというか、ここ地元ロングアイランドの
褒め上手な環境で成長し、自分を表現することをためらわない。

ロングアイランダーは甘やかされていると指摘されることも多いけれど、
今のところいい意味でそんな傾向は彼ら(同じ世代の子供たち)に作用し、
他者の功績にも惜しみない賞賛を贈ることが当たり前だという姿勢などは
時々、こちらが見習わなくてはと思わせるほどである。

そう、子供を作るのは何よりも彼らを取り巻く環境なのだと思う。

そんなアメリカンで、思春期まっただ中の息子とのある日の会話。
放任主義の母も、たまには子育て論など語ってみようかと。

* * * * *

ねえ、マミー、僕らがそうすることに価値はあるの?

目の前に提示された思わぬ幸運に圧倒される息子の瞳には、
少年期特有の若々しい悩みが揺れていた。

そんな問いかけに対し、その答えを知っている大人たちは、
なにをつまらないことを、と切り捨ててしまうかもしれない。

けれど、なぜ自分たちがその答えを知っているかを思い起こせば、
言い放った自分の愚かしさにきっと震え上がるに違いない。

そしてそれは、他の大人たち同様、その道をもうずっと前に通ってきた
私自身にも言えることなんだ。私、思い出せ、思い出せ。

私は、彼の目を見ながら一つずつ言葉をひろいあげていく。
「その価値は誰が決めるの?あなたの価値という大事なものを
 他人が決めてもいいの?価値があるかどうか、
 それを決められるのは、あなただけじゃないの?」

勝つも負けるも、進むも引くも、己が決めて形にするしかない。
予期せぬ展開には、そうそう容易に判断は下せないだろうし、
降って湧いたようなチャンスには、想い乱れて当然だ。

だから、まずは二の足を踏めばいい。悩めばいいんだ。
みっともなくじたばたして、言いたい放題言ってみればいい。
そして散々そうしたら、そこから踏み出すことを自分に課して
見事な着地なんて必要ないから、最後は全力で突き破れ。

世界をまだ見たことも聞いたこともないその小さな目や耳が、
世界の本当の大きさを計れるの?その口で物語れるの?
己の頭で考えるような可能性など、吹けば飛ぶようなものかもしれないよ。
そんな信じられないような何かを、見つけに行きたくはないの?

成し遂げるということは、成功という判を押すことではない。
掴み取ったものを自分のものにすることだ。自分の中に落とし込むことだ。
それがたった一粒でも、それこそが「価値あるもの」だと私は思う。

しかしそれは、通り抜けて初めてわかるもの。
そして、通り抜けて忘れてしまうものでもあるように思う。
人はみな、手にしたものがどこから来たのか、
いつの間にか考えなくなって、当たり前だと思ってしまうから。

だから時々、通ってきた道を振り返ることが大事なのかもしれない。
子育てという役割をもらった今、それは幸運にも私に与えられた。
息子たちを通して、私という時間を振り返り、再認識する瞬間。

かつて私がいた道に、立ち止まり考え続ける息子の姿が重なる。
彼が今、そんなすべてをわかることはないかもしれないけれど、
彼なりに悩んで考え抜いて、そして一歩踏み出すことが出来たなら、
この先何度でも、必ず自分の行くべき道を見つけられるだろう。

私にとっての子育てとは、個人の尊重というものを重ねていく時間だ。
形成されていく過程の一個人に、求められれば指標を与えること。
選択はあくまでも個人のものであるけれど、その選択肢を広げてやることが
親という、一番近くにいる者の在り方ではないだろうか。

そうして歩き出した彼らに、自信を持つという贈り物が出来たらと思う。
それは、多いに賛同され、認められ任されていく中で生まれる強さ。
その強さはきっと芯になり、優しさという最高の力を生むだろう。
あとはもう、思うように行けばいい。言う事なし。放任主義万歳だ。

いつかまた、彼らの前の幼い命が彼らに同じことを聞いたとき、
微笑んで、自分自身の言葉を紡いであげることが出来たなら、
それは私の役目が無事果たされたという証、何よりの勲章だと思う。



*写真はロングアイランドの北の海、ロングアイランドサウンドをいく2羽の白鳥と8年前の息子たち。本当に綺麗な夕暮れの光景でした。

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