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うまい文章などいらない。「いい文章」を受け取りたい。:『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』近藤康太郎著【試し読み⑴】

朝日新聞編集委員の近藤康太郎さんは、新聞業界内でも名文記者として、その名を知られる存在です。硬も軟も自在。独特の着眼点(企画力)で世界を切り取ります。およそ新聞らしくない個性的な文体は、それなのに読みやすく、笑いを誘い、読者を楽しませます。その文章は、尖って見えても、人を傷つけない。細部まで心が配られています。

著者プロフィール

すでに多数の著書がある近藤さんですが、はじめて、「文章を書くこと」をテーマにした本を書きました。12月初旬刊行『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)。文章術の実用書であり、言葉とは? 書くとは? 文章とは? を問い続けるなかで自分について深慮していく思想書でもあります。

なぜ、ふっと笑えるやさしい文章を書くのか。『三行で撃つ』のなかで、近藤さんは書いています。

ユーモアを。笑いを。必死で生きている人たちの、肩の力を抜く、空気を軽くする文章を書くんだ。
書くことの原動力が「怒り」であることは、ある。義憤にかられて文章を書くのが、むしろジャーナリストの主戦場だ。しかし同時に覚えておかなければならない。その義憤にかられた文章を、だれに読ませたいのか、ということだ。

いま世間には、「誰でも書ける」「簡単に書ける」と触れ込む文章術が溢れています。でも、近藤さんは、けっしてそうは言いません。文章を書くことが、簡単なわけがないからです。ただ、文章を書こうとからっぽになるまで考え抜けば、自分が見つかる。ラクではないけれど、それは楽しいことだと説きます。『三行で撃つ』を読めばきっと文章が、書きたくなる。

ここでは『三行で撃つ』より、一部を抜粋し、2回に分けて公開します。
(2回目はこちら

★12月6日(日)19時~:刊行記念トーク(※ウェブ参加可)
「文章を書くこと」について、話します。


第2発 うまい文章
――うまくなりたいというけれど。


--------------【ホップ】--------------

■「うまい」とはなにか

うまい文章とはなにか。

うまい文章を定義するのは、とても難しいですね。答えることが難しい質問とは、たいてい、問いが間違っているんです(「幸せとはなにか?」「自分はなぜ生まれてきたのか?」「ほんとうの愛とはなにか?」等々)。

そういうときは、問いを変えるとうまくいきます。ここでは、冒頭の問いを分節してみます。

「うまい」とはなにか。
「文章」とはなにか。


「うまい」とはなんでしょうか。初心者向けのホップでは、もう、投げやり気味に簡単に結論を出してしまいます。

うまい文章とは、分かりやすい文章である。

分かりやすいとは、書き手のいいたいことが、誤解されずに読者に伝わる文章、とでもしておきましょう。

ここでは、その逆、分かりにくい文章の傑作をひとつ掲げます。会社の会合で、幹事からこんなメールが来たらどうでしょうね。

「あ、すみません。時間に関しては前々回の訂正の部分がやっぱり正解で、日にちについてはその次の連絡が正しい日時です」
「あ、すみません、やっぱり間違っていて直近の訂正が正解ということがわかりました。ただし、皆様に送ったメールに時間差があり、前回分と前々回分というのが人によって異なる可能性があるのでご注意ください。一斉送信したのですが、あとから決まったメンバーの分は後から送りましたので、その人にとってそれは初回です」  (町田康『人生パンク道場』)

大笑いです。ここまで分かりにくいと、芸術ですね。「わたしは宴会の幹事など、よく雑事を押しつけられる。どうしたらいいでしょう?」という読者の悩み相談に、言葉の魔術師・町田さんが大まじめに答えている文章です。使えない幹事を演じて撃退しろ。発想といい、文章といい、最高でしかありません。

つまり、わたしたちは、この分かりにくい文章アートの、逆をすればいいのです。

その原則は三つだけ。

① 文章は短くする。
② 形容語と被形容語はなるべく近づける。
③ 一つの文に、主語と述語はひとつずつ。

■短く、近く、シンプルに――すぐ「うまく」なる三原則

①について。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

ご存じ、夏目漱石のデビュー作の書き出しです。「吾輩は猫なんだが、名前はまだ無いのである」とか、「吾輩は、まだ名付けられていない猫である」とは、ぜったいにしませんね。

もちろん漱石は、短い文章だけを書いていたのではなく、重層的にうねりをもたせた、複雑で長い日本語も書きます。ですが、総じて、短い、平易な文章を得意にしました。漱石の生きた明治時代とは、庶民にも分かる日本語を、主に小説家が開発し、新聞を通じて広めていた時代です。わざわざ難しい言葉は使わない。短い文章でたたみかける。漱石は町っ子。素の町人だったんです。

文章は、粋な町っ子でいきたいですよね。初心者はもう、すべての文章を分けてみてください。二つに分けられる文は、全部、二つに分ける。


②について。

わたしの敬愛する先輩に、悪文狩りの名人がいるのですが、その悪文ハンターが、ある日のテレビニュースで、「違法な野生動物の売買」とアナウンサーが話すのを聞き、憤慨していました。「耳を疑い、テロップもあったので目を疑った。野生動物にも法律守れってか?」。

単に「野生動物の違法な売買」とすればいいだけの話ですね。「違法」なのは「売買」であって、「野生動物」が「違法」なわけがない。こういう文章は、たいへん多く見かけます。なぜかというと、文章の書き手は、自分の言いたいことが分かっているからです。あたりまえですね。

しかし、読者は書き手の言いたいことなんて分かっていない。多くの場合、興味もない。相手は自分の言いたいことを分かっていない。興味もない。そこから始めるしかない。謙虚さが、文章のコーナーストーン(要石)です。うまい文章を書く人は、人に対して、世界に対して謙虚です。


③について。

〈太川陽介が路線バスに乗るテレ東の番組と言えば、そばに漫画家の蛭子能収がいるのがおきまりだが、冒頭、参加しないことが判明。本人が手紙でしたためた理由がちょっぴり切ない。/気を取り直して、番組は、二手に分かれ、路線バスとローカル鉄道の乗り継ぎ対決の旅を行う。スタートは西武秩父駅。〉

これも悪文ハンターが狩ってきた例文です。

プロの新聞記者が書いているテレビ批評ですが、どこから手をつけていいか分からないぐらいの悪文です。冒頭の一文が長ったらしいのはひとまずおくとしても、決定的なのは、「気を取り直して」の一節でしょう。ここで気を取り直すのはだれか。太川陽介か。番組のディレクターか。おそらく、この記事の筆者なんでしょうね。「わたしが」気を取り直す。そして「番組は」うんぬんと続く。それを、一文にしている。ひとつの文章に主語と述語が複数あるので、すさまじい違和感がある。

主語と述語は、一文にひとつずつでいいでしょう。もちろんこれは原則で、複文や重文にして効果を増すこともある。ですが、この記者のように、大原則を知らないで書き流しているものが大半です。原則は守ってこそ、例外に効果が出る。

「ちょっぴり切ない」と、わざわざ口頭語にして読者に媚びている。「旅を行う」は禁則表現で、記者の意識の低さを証明しています。なぜ禁則なのかは第4発で詳論します。

■「文章」とはなにか

さて、ここでふたつめの問いです。文章とはなにか。これはしちめんどくさい疑問で、まともな人間はこういうことを問題にしません。なので、初心者向けのホップでは、スルーしておきましょうか。

ただし、職業ライターを目指すなら、この問いに真剣に立ち向かわなければなりません。この本でも各所でしつこく考えます。

文章とはなにか。言葉とは、なんなのか。

ここでは、ほんの少しだけ。

漱石の小説『草枕』には、若い画家の主人公と謎めいた美女那美さんが、急に距離を縮める場面があります。漱石は、こういう男女の機微を書かせると右に出る者はいないくらい、うまい。

ふたりきりで話し込んでいた部屋で、地面が大きく揺れた。


「地震!」


勝ち気な那美さんも、さすがにおびえて主人公に近づく。女の息が、顔にかかる。

「変な気を起こしちゃだめですよ」。女が言うと、主人公は「むろん」と答える。

ところで、「地震!」や「むろん」だけを切り出すと、それは、文章でしょうか。主部と述部があって文章を構成するという観点に立てば、文章ではないですね。「地震」は言うまでもなく名詞で、「むろん」は副詞です。ところが、小説を読むと分かりますが、この品詞ひとつで、文章になり得る。

文章とはなにか。

文章とはキャリアー(信号、波、触媒、運ぶもの、感染)です。言葉を発する主体の、感情、判断、思想を乗せて走るクロネコヤマトです。宛先は、もちろん読者です。感情、判断、思想がそこに梱包されていなければ、読者の受け取り印はもらえません。

読者の受け取り印とは、心が揺れた、倒壊したという現象です。

地震!

--------------【ステップ】--------------

■ミフネはたしかにうまいけど

朝日新聞に「アロハで田植えしてみました」という連載記事を書き始めたのは、二〇一四年のことだった。都会から田舎に流れてきたライターが、縁もゆかりもない土地で、早朝の一時間だけ田仕事をするという、そこだけとればなんということもない企画だった。しかし連載一回目から、驚くほど多くのファンレターや電話、メールが来た。テレビ番組になり、本になった。連載はシリーズ化され、二〇二〇年、シーズン7まで続いている。

その記念すべき第一回が紙面になったとき、九州地方の新聞社の編集幹部に、掲載紙を送ったことがある。別件の取材でお世話になった方で、ごあいさつという程度。とくに深い意味はなかった。

その編集幹部は、現役時代から名文記者として知られた人で、本を何冊も出版し、文化部長や編集局長を歴任した人物だった。返礼のはがきに、こうあった。


「記事は読んでいました。なにしろうまい文章です。うま過ぎると言ってもいい。しかし、なにごとにつけ、『過ぎる』というのは、よくないことかも知れませんよ」


この短いはがきには、しばらく考え込んでしまった。

黒澤明監督の傑作に「椿三十郎」という映画がある。主人公(三船敏郎)は、頭が切れてべらぼうに腕の立つ素浪人で、世の中に怖いものなどない男。敵の侍を容赦なく切り伏せる。その三十郎に、いかにも気品のあるおっとりした、城代家老の奥方が、諭す場面が忘れがたい。

「あなたはなんだかギラギラし過ぎていますね。そう、抜き身みたいに。あなたは、鞘のない刀みたいな人。よく切れます。でも、本当にいい刀は、鞘に入っているもんですよ」

■「うまい文章」は「いい文章」か

徒然草は「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ」と書いている。

「歌よみは下手こそよけれあめつちのうごき出(い)だしてたまるものかは」とは、江戸時代の狂歌だ。歌よみは下手な方がいい。うまい歌など書かれて、天地が動いてしまっては危なくて仕方ない。古今集の序文に、「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」とあることに対する、強烈な皮肉だ。


人は、うまい文章を書きたがる。切れる刀をもちたがる。敵(読者)をなぎ倒す。

しかし、その「うまい文章」は、はたして、「いい文章」なのか。

文章が、主体の感情、判断、思想を乗せて走るクロネコヤマトだとすると、そして受け取り印は読者の心が揺れたという現象だとすると、うまい文章に、喜んで受け取り印が押されるわけではないのではないか。

うまい文章などいらない。「いい文章」を受け取りたい。お客さんは、そう、思っているのではないのか?

ここで、ついに問いが変奏される。


いい文章とはなにか。


文字どおり、人を、いい心持ちにさせる文章。落ち着かせる文章。世の中を、ほんの少しでも住みいいものにする文章。風通しのいい文章。ギラギラしていない、いい鞘に入っている、切れすぎない、つまりは、徳のある文章。

切れすぎる刀は、人を落ち着かなくさせる。余裕がほしい。ふくらみが、文章にはほしい。

では「ふくらみ」とはなんなのか。

ここでは、「誤読の種を孕むこと」と言っておく。この本の最後の弾丸、第25発で、リプライズされるはずだ。


★12月6日(日)19時~:刊行記念トーク(※ウェブ参加可)

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