生きる張り合いがないとき【韓国エッセイ・試し読み】
「どうしようもないことはどうしようもない」と考えるのがよい時もある。でも「どうしようもなかった」とクールにふるまおうとしても思い通りにいかないのが平凡な私たちの人生。
韓国から届いた、自分甘やかし系(いい意味で)エッセイ『怠けてるのではなく、充電中です。』(ダンシングスネイル 著/生田美保 訳)。
今回はその中から、無気力感に悩む人へ届けたい一遍をご紹介します。
■■■ 倦怠の反証 ■■■
人生を楽に生きたいと口癖のように言っていたのに、実際に何かが叶って生活が一段階ずつ楽になると、激しい無気力感と倦怠に悩まされた。願っていたその何かが生活の手段ではなく目的になってしまっていたせいだろうか。目標をひとつ叶えるたびに、生きる理由もひとつずつ消えていった。そして、新しい目標を見つけるまで方向を見失ってさまようというパターンを繰り返すうちに、過程を楽しむことがどんどん下手になった。
人は極限の状況に置かれたり死を前にしたときには絶対に倦怠を感じることができないという話を聞いたことがある。だからだろうか。倦怠は暇人の贅沢として片づけられがちなように思う。けれど倦怠は、忙しい生活の中でも一瞬のスキをついて侵入してくる。そんなときは、そのうちよくなるよと無条件的に肯定するはげましの言葉はなんの役にも立たない。もちろん、すべての人に意味がないわけではないが、私の場合は、水面上にあがってきた感情を一時的になぐさめるに過ぎなかった。
しかしそのうち、この倦怠の向こうに何かがあるのではないかと考えるようになった。昼間明るいときは懐中電灯でいくら照らしてもちっとも変わらない。光は暗いところでこそ明るく見え、明るい光を見たことがある人だけが闇が暗いということを知っている。絶対的に明るい/暗いということはないのだ。それと同じで、絶対的な倦怠というのもないと信じている。もしも、人生がつねにだるいという人は、それに完全に漬かってしまっているせいで、倦怠を感じることすら難しいのかもしれない。倦怠を感じたり毎日がつまらないと思うのは、少なくとも一度は深く人生に没頭したことがあったり、生き生きと暮らしたいという欲求があることの反証だろう。
私たちの感情や思考の向こう側にはたいてい欲求の原型がある。生活が少しずつ楽になるたびにあんなにも倦怠に包まれた理由は、おそらく、楽なだけでは満足できない、自分の中に残っている情熱のためかもしれない。今のこの倦怠の向こう側にある何かを見つけたら、理解して、抱きしめてやろう。
「そこにいたんだね。待たせてごめん」
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今日という日があなたにとって、自分の中の小さくても新しい情熱の火を発見できる一日でありますように。
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