Axiomatic Change of Japan β2.2

これはドラフトです。
こうした内容でずっと色々な人と話をしていることを少しずつ書いています。
書く前に相当長いこと考えているので齟齬はないと思いますが、書き足しているので重複はお許しください。
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私は、今、日本は大きな変化の中にいると思ってます。
このことは誰もはっきりと言わないし、どこにも書いてありません。でも明らかに向かっている方向があります。私はAxiomaticな変化だと思っています。 Axiomとは数学の言葉で 「公理」のこと。平たくいえば「あたりまえ」ということです。
なんの疑いもなくそう思ってきた「あたりまえ」が根底から変わる、そういう価値観の変化が起きるんだろうということです。

私は1960年代の初頭に生まれているので、戦後の高度成長期の中心的な時期に育ち、その価値観で生きてきました。私の周囲のこの世代の人たちはみんな同じです。ここでは、経済の右肩上がりや、利益を稼得するという志向性は当たりまえで、誰も口にすらしません。実は今でもこの考え方は続いていて、会社の制度、例えば昇進や管理の仕組みは依然その中にあります。基本、稼いだ人が偉くなるという仕組みのことです。
日本以外の国の国際経済政策を含めても、基本価値観や妥当な制度は全てその経済観の中にあると思います。
でも、今後、10-20年レンジで、それは確実に変わるでしょう。

そう思う理由は色々あります。
いずれも社会にあるメガトレンドが関係しているのですが、相互に依存関係にあって何が一番因果関係の端にあるのかなかなか分かりません。
一つの視点は人口減の今後へのインパクト。
日本では数年前から既に人口は減少に転じています。人口というものは再生産過程ですから急に増加に転ずるなどのフラクチュエーション、経済指標のような上下変動はないのです。移民や占領などの大きな変化がない限り。
どうもこの人口総数は、少子高齢化、人口減少、マクロ経済の縮退、社会価値観の変化、などなど色々なメガトレンドの引き金になっているようです。
少なくともマクロ経済に関しては、従来基準的な価値観から見た「成長」は多分もう現実的ではないと感じます。
こうしたメガトレンドは、一つ一つばらばらの現象として知られていました。しかしどうも一つの大きなストーリーに全て繋がっているようなところがあります。Axiomatic changeの進展を私が思うのはこうしたことを感じるからです。

(日本だけではない)
ポイントの一つは、今起きていることは「日本の衰退」かどうか、という点です。
書いた通り、他の様々な国にもこのメガトレンドは同様に起きてきます。
人口総数や人口構成の変化は、統計上でもアメリカ、欧州、韓国、中国。今、好調に見えているこうした国でも、大きな変化は起きてくるのです。つまり、人口変化、マクロ経済も全て日本と同じこの同じトラックに入ってくるということです。
今後人口が増えることが予見されているインドやアフリカを除くと、今日本が向かっていることは、早晩世界の大きな方向になってくるんだろうと思います。

(成功の指標)
問題は、今まで当たり前とされた社会的な「誉」は今後何になっていくかということです。
経済は拡大するのが当たり前だったので、経済的な成功、具体的にいえば「高い所得」は、今まで誰も違を唱えない社会的な誉でした。より高い所得を得ることが立派で、そのために学校で頑張るのが当たり前、いい学校に行くために受験をしたりするモチベーションや常識があったのです。
しかし、経済を一旦「成長するもの」とみなさないことにすると、今後誉となる価値は何かです。
慶應義塾SDMの前野隆司さんが「ウェルビーング」といったり、Stanford UniversityのJennifer Aakerなどが"Happiness"をテーマに研究しているのは、多分偶然じゃないと思います。 一つの候補ですね。
15年くらい前でしょうか。こうした論文などを見かけて、私はなんともよく位置づけが分からなかったことを思い出します。でも、今この「次の時代の誉」と考えるとなるほどと分かる気がします。

日本にはこの動きについて行きたくない派もいます。30年間この国の所得が上がっていないということを批判する声です。この人たちは、日本の政府が悪いと声をあげています。何十年も所得が上がっていない。他の国は成長しているのにということでです。しかし、よく見ると日本では実は物価も上がっていない。一国の経済を閉じた系とみなすと、所得だけではなく物価とのバランスが問題です。
確かに30年間で生活の厳しさは増したかもしれません。しかし一方、日本では生活に破綻して、路頭に人が彷徨っているかと言えばそんなことは全くないのです。私が子供だった頃、渋谷の駅などには傷痍軍人がいたり街には物乞いの人がいました。最近まで新宿の地下道にはホームレスがおり、代々木公園にはブルーテントの一角がありました。どこかに移転させられた説がありますけれど、社会全体はこのわずか数十年の間に少なくとも表面上は随分住みよく、健康になっているのです。
このことは政府も公式の広報をしていません。でも、今の政府や行政は、文句を言われることはしていない。存外とてもうまくやっているのかもしれないと私は思っています。

(日本は先頭を走っている)
さて、今回今までと違う大きな点は、日本がトップを走っているということです。日本が先頭ということは今までにないことです。今まで日本は過去100年以上、「先達」の後をついてゆき、注意深く転ばないようにすれば良かった。いいとこ取りができたのです。でも、今回ばかりは先頭を走っています。
なので、今直面する事態は、その意味でも新しい現象、この国に固有な問題状況に見えるのかもしれません。

(内閣は知っているかも)
では、政府はこの動きを感知しているのか。これに関しては、残念ながら私には分かりません。
知り合いの方で、お子さんが財務省の若手という方があります。最近、そのお子さんは内閣の「新しい資本主義実現本部事務局」というところづけになったとのこと。なあに、各内閣みんなそういうようなネーミングをするんですよ、とその方はおっしゃいます。
そうかもしれません。が、ほんとうのところ内閣は将来を読んでいて静かに準備をしているのかもしれないと思うこともあります。
少し先の世の中に起こりうる、新しい経済の姿。Axiomatic Change のことを片側考えながらこの内閣の動きを考えると、少し背中がひやりとする気がします。

(移行期の人々)
実際の社会価値観は変わってきているのか、といえば、依然動きは緩慢で表面的にあまり大きい変化はないように見えます。価値観や人々の行動、社会の状況がもっとはっきり目に見えて変わるには10〜20年くらいの時間がかかりそうです。時間のレンジを考えると、私はその頃既にいないかもしれません。

難しいのは、移行期です。
私の子供世代は、今20歳代です。大きな社会変化が20年後に起きるとすると、彼らはまだ40才代、自分の人生にインパクトを与えるそれから目を背けることはできないでしょう。一方、彼らは今までの経済至上主義の時代を経験的に知っています。収入が豊かな生活を実現するという成功体験があるということです。
この世代は、大きな変化が起きる前のちょうど狭間の過渡期をこれから生きることになります。否応なくイママデとコレカラの相剋の中を進まざるを得ないということでしょう。個人の選択を余儀なくされるかもしれません。
ここ数年のことでいえば、日本よりアメリカやヨーロッパの方がよく映るでしょう。だから、気の利いた人は今既に軸足を海外に移しています。
ところが、この後アメリカやヨーロッパ、中国、韓国、台湾。みんな大きく変わらざるを得なくなったとき、この人たちはどうするのか、少し心配です。

(マーケティングの新しい役割)
次の時代に向かって。私は「マーケティング」ということが存外大事な素養になるんじゃないかと思っています。もちろん「モノ売り」という古典的な狭い意味のマーケティングではありません。
最終的にモノやサービスのベネフィットを享受し価値を紡ぎ出していく人たちに、どんなモノやサービスを届けなければならないか、バックキャストして会社の動きを決めていくという本来的な意味でのマーケティンクです。
私はことばにこだわりはありません。マーケティングではなくもっといいことばがあるなら、なんと呼んでもいいと思います。

私がそういうのは、価値の消費主体である顧客に焦点が当たること、生産者-消費者という二項対立だけじゃなくなるという点で発想がますます大事になると思うからです。
学生達と話していたり、大学のカリキュラムを考えると、大学で学ぶことも今までの過去の学問成果だけじゃだめなんだと思います。過去を学ぶことが大事でなくなるわけではありません。でも未来を見通し、生き方を考えていく未来志向がもっと大事になると思うのです。

(ものづくり)
日本の企業には「ものづくり」を尊ぶ文化が根強いということもあります。「ものづくり」といえばなんでも許されるようなところがある。大手の企業から町の中小企業までそうなのです。
こうした気風の中では、工場品質に関する関心は高いのですが「マーケティング」の発想が薄いと感じることがあります。つまり、使い手がその商品やサービスを使って一体どうするのか、どんな価値を生み出したり感じたりするのか、のようなことにはほとんど目が向いていないということです。

Axiomatic Changeのことは、どこにも書いてありません。有識者でこの論を声高に話す人も聞きません。論調がやや「右肩上がり」に対してネガティブに聞こえかねないこと、変化が大きすぎて荒唐無稽と受け取られるリスクが大きいこと、などを恐れてかもしれません。

(見え始めている現象)
Axiomatic Changeは既に進んでいるところがあると思うのですが、視覚的には厚い雲がかかっているようです。雲の向こうの景色は残念ながら見えません。
しかし、雲間に少し見えるものがあることがあります。私は、数年間、色々なニュースや人の話を聞きながら、僅かに見える明日の姿かもしれないと思って見ています。
海外の話であっても、日本のことであってもです。
そこではどんなことが起きてくるのか、すでに起きてきているのか。人はどう生きていくことになるのか、何が大事なのか。
そして、存外、今既に起きている個々のことが、大きな流れの中で、一貫している風なことに驚かざるをえません。

例を挙げるなら、居住形態や居住地域などは、これから変化しそうなことの一つで、既に見えていることです。
住む地域を変えないと、高齢化した人は家を維持できなくなっているということです。あるいは、都市部でも空き家が出始めているという観測もあります。
居住地域が変わらないと、この先、移動にだって困るようになりそうです。中部地方のある県の交通課で数年前に話を聞いたとき、そう思いました。倒産させることができないバス会社を維持する目的で、その県ではバスのオンデマンド運行を初めていました。一人暮らしの高齢者などが買い物に行きたいときなどにバスが家まで来るのです。今はよくても、これがずっと続くとは思えません。
人は水理、医療、食糧、教育などライフラインのアクセスがある地方都市に集まって住むようになると思い始めたのはこのときでした。既にそれは少しづつ始まっているようです。
とすると、その人たちがいなくなった今の里山はどうなるのか、田畑や耕作地の使い方はどうなるか。農業や土地利用のロジックも変わることになるでしょう。

鉄道、地域開発、不動産などは、時間の単位が長い仕事です。今、ビルなどの建設や投資をはじめる仕事は、回収期に入るまで10年、20年の時間が必要です。こういう業にある人は「今日の常識」にとらわれず、未来の見通しがよりだいじになっているんだろうと思います。

(FB Comment)

そこだけを注視すれば尾和さんがお書きの時給もそうでしょうけれど、マクロに見て、今後、長眼鏡(ながだま)では昔のような右肩上がりは期待できない印象です。
高度成長期に生まれ育ってバブルも経験したジェネレーションと違う経験を持った人が少しずつ増えています。
経済の成長や所得の増加など今までの「あたりまえ」は既に曲がり角を曲がっているかもと感じることがあります。
そう見えない諸外国を引き合いに出す人がいますが、15-20年レンジで見ると、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国。皆日本と同じトラックに入るでしょう。
ここ数年では、あまり社会は変わらないでしょうけれど、大きな変化の波で見ると、既に社会価値観が変わるくらい大きな変化が進んでいるんじゃないかということです。

感覚はそう教えますが、会社の制度含めて、あまりまだ変化は見られないので、大丈夫だろうかと少し心配しています。

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コメントは捨象したところも多いので、説明が足りていないところが沢山あり失礼しました。

ポイントの一つは、今起きていることは「日本の衰退」かどうか、という点です。書いた通り、他の様々な国にもこのメガトレンドは同様に起きてきます。20年経つと、世界は相当違う様相になるかもしれません。アメリカや中国がどう変わっているか、なぜヨーロッパでサステナビリティの意識が進んでいるか。いずれも雲の合間のような景色であるようですけれど。一貫しているように感じています。
「不況」と書かれましたが、これは景気循環論の考えです。今のこの変化はフェイズが移行するくらい大きなものじゃないかと思って見ています。つまり、ただ待っていても「そのうちまた良くなる」ということはない、ということです。
数日前にこの話になったとき、家族、国家、墓地、貨幣、こうした「あたりまえ」もまた解釈や意味が変わるのだろうと思いました。

子供の教育のことは、全く同感です。が、その親の世代が明快な将来のヴィジョンを持てていないかもしれません。そうであると、当座は子供を従来価値で個別に最適化する教育に固執することに繋がるでしょう。
利益の獲得、高い給与、これらは全部「今までの誉」です。次の社会では、なにが「誉」になるのか。これが問われている気がします。
「惜しみない資金援助」はその通りですが、既に政府支出はタイトになってきています。増税を内閣が思っているのもこの理由です。地方自治体によっては、道路などのインフラ補修費を支出できなくなってきているところも出てきています。この国は、居住地域を含めて既に規模縮小しないといけなくなっています。

政府は、存外未来を見通しているかもしれません。知人で子供が官僚になった人がいます。その人が、財務省に行った息子が今内閣に出向していると教えてくれました。その出先が「新しい資本主義実現本部」。なあに、どの内閣もみんなセンセーショナルな名前つけるんですよ。と、その人は言います。そうかもしれません。でも、アナウンスはしないけれど、長眼鏡で未来を見ているのかもしれません。

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すでに見えているいくつかの例
この国ではどんなことが起きてくるのか、すでにきているのか
人はどう生きていくことになるのか、何が大事なのか
居住形態の変化、地方都市に集まって住むようになる
ラグの大きな仕事、鉄道、地域開発、不動産 見通しがより大事に

遠山正道・為末大のダイヤローグ 10/12/2023

●Note

レクリエーションのなかでの歌とゲーム
「勝ち負け」のあるなし

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」
Roger Caillois, Les jeux et les hommes. 1958
遊びの類型論
1. 競争(アゴン)2. 偶然(アレア)3. 模擬(ミミクリ)眩暈(イリンクス)
遊びの定義
1、強制されない自由な活動。
2、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限・隔離された活動。
3、未確定の活動。ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりするのではなく、創意の余地がなければ。
4、非生産的活動。財産や富、いかなる種類の新要素も作り出さず、それが終われば勝負開始時と同じ状態に帰着すること。
5、規則・約束事にしたがう活動。この約束事は通常法規を停止させ、一時的に新しい法を確立する。
6、虚構の活動。非現実という特殊な意識を伴っていること。


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