【部下を推す話】[26] 呼び間違い

昼過ぎのことだ。オフィスに1本の電話が掛かってきた。部下Bが受話器を取る。

「Aですね。生憎席を外しておりまして、」

外勤中の部下A宛に掛かってきた電話だったようだ。電話に応対しながらBが片手で何かを探し始める。Aが応対している案件の資料のようだ。わたしもBもA宛で掛かってきたその電話の要件を把握していた為、どうやら代わりに要件を聞くつもりらしい。
電話するBに代わり、わたしはその資料を探し出しBに手渡す。なんとなくAが何処に資料を置いたか見当がつく為、資料はすぐに見つかった。
Bが資料を片手に電話応対を続ける。流石わたしの部下なだけあって優秀である。

暫くして、Aが外勤から帰ってきた。帰ったばかりのAにBが呼びかける。Aの外勤中に掛かってきた電話についての話を伝えている。
デスク上にあった資料を借りた件について話さなければとわたしは口を開いた。

「あ、それで＊＊りんのデスクの」

そこまで言ってからわたしは「あ。」と口を押さえた。しまった。やらかした。
わたしが「あ。」と言ったのと同じタイミングでBの声も聞こえた。咄嗟にBの方を見れば、Bも「あ。」という顔をしている。わたしは笑顔のまま固まった。

……
………………

以前触れた通り、わたしは仕事の話をする際に部下の2人を呼ぶ時は「Aさん」「Bさん」と呼びかけている。最低限それがケジメだと思っているからだ。

仕事の話じゃない時は、Bのことは「Bちゃん」と呼んでいる。ニコニコした彼女はいつも可愛い。
Aのことは仕事だろうがそうじゃなかろうが「Aさん」もしくは「Aくん」と呼んでいる。

しかしAには別の呼び名もある。わたしがBとAについて話すときだけしか使わぬ名──「＊＊りん」だ。
本人に呼びかける時はその名で呼ばぬようにしている。本人から「危険だからだめです」とNGを出されているからだ。尚、何が危険なのかは掘り下げていない。詳しくは『【部下を推す話】[20] 危険な愛称』をご参照いただきたい。

……
……………

上述の通りである為、わたしは部下であり推しである2人に呼びかける際は細心の注意を払っていた。うまくスイッチを切り替えていたのに。久々にやらかした。

「あの、ごめんなさい。今の取り消し…聞かなかったことにして…やり直します…」

と呼び直そうとすればAが即座に

「大丈夫です」

と言う。怖すぎてAの顔を見ることが出来ない。ー待ってごめんなさい悪気はないの許して。
推しに嫌な思いをさせるなど言語道断。その場で土下座したかったが、残念ながら此処はオフィスだ。昼のオフィスでわたしが土下座なぞしたら間違いなく「まーたねこのが変なことやってる」と噂になってしまう。
ただでさえ、勤続年数がそこそこ長い所為か、「わたしは向こうを知らなくても向こうはわたしを知っている」ということが多いのだ。接点の無い筈の他部署に電話をし名乗った途端に「ああ！」と明るい声を上げられる…というのを一体何度経験しただろうか。その「ああ！」は何の「ああ！」なの？と聞いてみたいが、未だに恐ろし過ぎて聞けていない。

兎に角「ごめんね、Aさん！」と謝り、会話を続けようとした。が。
職場の空気が先程までとは一変していた。わたしのデスク付近で真面目な仕事の話をしていた筈の同フロア別職種のお姉様方が、明らかに「うふふ」と笑顔になっている。場がほっこりしてしまっていた。
何やら居た堪れなくなり、わたしは両手で顔を覆った。じわじわと自分の頬に熱が集まっているのがわかる。たぶんいつもより顔が赤いに違いない。

－この空気知ってる。あれだ。

ドラマとか漫画でよく見る『教師を間違えて「お母さん」って呼んだ』シチュエーションで流れてる空気だ…！

「〜〜〜〜〜ッ！」

居た堪れない。

そういえば、ふと思い出す。先日同僚の前でAを褒めたときのことを。
わたしが目を細めて「良いコ」とAを褒めたところ、それを見ていた同僚に「お姉ちゃん…！」と呟かれたのだ。
わたしは普段からAやBが良い働きをすると本人たちを褒め倒し、同僚にはデレデレしながら「うちの子たち優秀でしょ？」と自慢しまくっている。
だから気にしていなかったのだが。

つまり、周りのお姉様方が醸しているこの空気は「職場なのにうっかり呼び名間違えちゃって、お姉ちゃんってばもう⭐︎」ってことなのか。
若しくは、突然繰り広げられた姉わたしと弟Aと妹Bの漫才で脱力してしまったのかも知れない。

いずれにせよ、ただわたしとAが恥ずかしいだけである。やはりAにはそのうち土下座せねばなるまい。

---

尚、数日後の帰り際。運転中の愛車の中からいつものように終バスを待つAに手を振ったところ、バス停に近付いたときからずっと目を合わせてくれた上にとうとう一礼が返ってきたことを報告しておく。

ー良かった推しに嫌われてないよ、わたし！！！

AもBも心が広く優しい。幸せを噛み締める日々である。

---

手を振る話はこちら。