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好きの反対は無関心という嘘

よく言われるこんな言葉がある。
「好きの反対は嫌いではなく無関心」
かの有名なマザーテレサの(他の作家の言葉との諸説あり)、愛の反対は憎悪ではなく無関心という言葉が少し歩いて変化したものだろう。

嫌いという感情を認知した時点で関心があることになるから、嫌いという感情は好きに内包されるものであるという理屈だ。
不倫に特別な嫌悪感を抱く人が、嫌いならば見なければいいのに、ついつい有名人の不倫のニュースを調べてしまう。
そしてまるで不倫をされた当事者かのようにそれを叩く。
そうした行為を揶揄するように使われる事もしばしばある、とても便利な言葉である。
好きの反対は嫌いであるという、常識を覆したセンセーショナルな格言だ。

しかし本当にそうだろうか。
好きの反対って嫌いでしょ?
花占いも、好き、無関心、好き、無関心ってやるのがマザー流?
じゃあ嫌いってなに?

好きの反対を探求するために、まずは好きではないものを思い浮かべてみる。
僕の好きじゃないもの...。
怒る人。
税金。
海老。

ざっとこんなところだろうか。
改めて考えてみると、わざわざ声高に宣言する程好きではないものは案外少ないようだ。
問題は、僕がこれらに無関心であるかどうかだ。

まずは怒る人。
怒られているのに無関心でいるのは、確かに強いかもしれない。
「なんでこんな無茶な納期で受注したんだ!これは一体どういうことだ!」
「なんでですかねえ。ちょっとわからないです。」
「わからないってお前、先方はお前が出来ますって言ったって...!」
「ちょっとわからないです。失礼します。」
日本には古来から、暖簾に腕押し糠に釘というありがたい言葉がある。
怒りのエネルギーは永続しないし、謝りもせず認めもしないその張り合いのなさに、怒るのもだんだん馬鹿馬鹿しくなるだろう。
しかし、無関心でいる間も、相手が諦めるまではずっと怒声を聞いていなければいけない。
怒れる上司と無関心な部下の闘い。
それは長い闘いになるだろう。
そしてその後彼は、おそらく解雇される。
解雇される前にきちんと謝るべきだ。
当事者なんだから無関心ではいけない。

次に税金で考えてみる。
これは無関心でいられる方法があるなら、是非とも教わりたい。
日本に生きている限り、ただ生きているだけで払い続けなければならない。
むしろ気づかぬうちに払わされていることさえある。
無視すればたちまち督促してきて、ものによっては最悪の場合差し押さえになるだろうか。
恐ろしい。
とても無関心ではいられない。
むしろ確定申告のやり方などは、もっとちゃんと教育すべきだ。
無関心でなどいてはいけない。

ならば海老はどうだろうか。
そもそも僕が何故海老を好きではないかというと、海老は少し入っているだけで強烈な海老の香りを放ってくるからだ。
海老出汁ラーメン、海老入りシウマイ、海老の味噌汁。
海老の名前を冠する料理なら避けられるからまだいい。
グラタンやパスタなど、一見海老が入っていないように見える料理にも、海老は出番直前のフラッシュモブのような顔をして潜んでいて、口の中に入った瞬間に踊り始める。
海老はどこにでもいる。
特に焼いた海老は香りが強化されるから最悪だ。
無関心を装っても無理なのだ。
口の中で突如始まるフラッシュモブを、一体誰が無視できようか。
嗅覚が、そして味覚が過敏に反応してしまう。
例え目隠しをされて、大量の蟹味噌汁の中から海老味噌汁を当てる、海老味噌汁当て大会に出場させられても、僕は勝ち抜く自信がある。
海老は常に僕を狙っている。
こちらも常に警戒しなければならない。
これも無関心ではいられない。

僕の好きではないものには、どれもこれも無関心ではいられない。
顧客に怒られるようなミスに気づいた時は鼓動が倍速になるし、決算の時期が近づいてくると具合が悪くなるし、焼いた海老を無理やり食べさせられたら泣きながら吐くだろう。
我ながら屁理屈甚だしいが、ではこの格言が果たして、食べ物や税金のようなものの話じゃないって、本当に言えるだろうか。

嘘が嫌い、という女の人は多いように感じる。
ジェンターを論ずるつもりはないが、女の人の方が嘘に敏感なのかもしれないなと思う出来事はよくある。
実際に男の浮気はすぐバレるとか、女は嘘をつくのが上手いとか、女の人と嘘に関する格言は多い。
もしかしたら女の人には、嘘を感知する特殊な能力が備わっているのかもしれない。
世の中には前世が見えたり、オーラが見えたりする人がいるみたいだし、嘘発見器さながら、脈拍や瞳の動きなどをヒントに嘘を見極めているとしたら、随分と現実的な気もする。
本当かどうかはわからないが、浮気されたこと自体よりも、嘘をつかれていた事実の方がむかつく、などという話もよく聞く。
おそらく嘘が嫌いなのに、嘘を見破るのが得意な人もたくさんいるだろう。

そういう人にとっての嘘は、僕にとっての海老だ。
嫌でも感知してしまうのに、無関心でいられるはずもない。
この世から海老を消滅させるボタンがあったらすぐにでも押したい。
もし海老が消滅したら、食物連鎖で大好物のまぐろが消えてしまいますよ、と言われれば少し悩むかもしれない。
でも目の前から消えてほしいと思うのは間違いなく本心だ。
僕は海老が嫌いだと自信を持って言える。
海老のフラッシュモブは金輪際お断りだ。
もし好きの反対が無関心なら、この向かうところのない嫌いという気持ちは、いったい何だというのか。

嫌いという感情は確実に存在している。ではなぜ、好きの反対は無関心などという世迷言が生まれたのか。
おそらくそれは、嫌いでいることで、自分が傷つかないようにする為の嘘なのではないかと思う。

「俺昨日家で17回もうんこしたぜ。」
「え!すごいなあ。大丈夫なのかよ。」
「まあ嘘だけどな。」
...ズキン。

こんな会話は聞いたことないが、なんの悪意のない嘘はこの世にいくらでも溢れている。
和牛の鉄板焼きコースを選んだら、豪勢な焼き海老が含まれていてショック、なんて事だってある。

自分が嫌いだからと言って、この世から消えてほしいと願うのはエゴだし、不可能だ。
嫌いという感情を持っている限り、不快な思いから逃れる事はできない。
この不快だらけの世の中で自分を守るには、嫌いという感情を、好きとまでは言わず、せめて無関心に昇華するしかない。
そんな思いを込めて作られた言葉なのではないか。

好悪は変化する。
子どもの頃嫌いだったピーマンが大好きになったり、結婚する前にさんざん不倫を叩いていた人が、いざ結婚して不倫に走ったりする。
僕自身にも、昔は嫌いだったのに今では無関心になったものはたくさんある。
もしかすると嫌いなものが無関心になる過程には、年齢や、人生のタイミングというものが作用するのかもしれない。

ならば、その解脱の日を待ちながらも今傷つく者(僕)へとかける言葉は、きっとこうなるだろう。
「好きの反対は嫌いではなく無関心だよ。
 今は嫌いでも、無関心でいるように心がけていれば、そのうちきっとどうでもよくなるよ。
 だから傷つかないで。
 悪い事をして怒られたら謝ろう。
 海老はそっと残せばいい。
 でも税金は払おうね。」

優しい嘘と、税金からは逃れられないという教え。
それこそがこの格言の真意なのではないだろうか。

現時点の僕はこの言葉が嫌いだから、こんな屁理屈を捏ねくり回している。
いつか海老が食べられるようになったら、無関心になれるかもしれないけど。

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