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書評|スピノザ『エチカ』(100分de名著)

ボクの知識の習得スタイルってインプットとアウトプットに分けることができます。本を読んだり、映画を観るのはインプット。書評を書いたり、映画評を書くのがアウトプットです。プログラミングを学ぶことがインプット、実際にプログラムを書くのがアウトプット。アウトプットは人との会話でもいい。この本を読んでこんなふうに感じたんだと別の人に伝えてみる。そうするとフィードバックもあり、知見がさらに深まります。モノの見方は多角的で、一人が見れる範囲は限定的ですからね。同じAを見ても、ボクと他の人では違う見方をする。お互いの違いをリスペクトできれば、とても良いフィードバックループになります。

インプットのやり方も様々です。実際にインプットする前に、インプットのやり方を学ぶのも効果的です。例えば、英会話を習得したいとする。インプットしなければいけないことがたくさんありますよね。単語や慣用句を覚えないといけない。文法を理解しないといけない。発音も練習しないと。リスニング力だって高めないといけない!人それぞれに英会話の学び方は違いますが、それぞれに効果的なやり方はあります。その自分にあったやり方を見つけることが効果的にインプットするのに重要だと思います。

ボクの場合は哲学のような複雑なテーマにアプローチする時は、まずその概要を理解しようとします。概要を理解するのにとても役に立つのがNHKテキストから出版されている「100分de名著」シリーズです。すべてが素晴らしいわけではないですが、今回読んだスピノザ『エチカ』の國分功一郎の解説はとても理解に役立ちました。

ボクの場合はアメリカの大学を出ているため、アメリカ自由主義/民主主義に関係する哲学者は授業で習いましたし(インプット)、論文もたくさん書きました(アウトプット)。ソクラテスやプラトンのようなギリシャ哲学から、聖アウグスティヌスのようなキリスト教の哲学者、さらにホッブス、ロック、ルソーのように直接的に自由主義や民主主義の土台の考え方となって人たち。

なぜ、いまスピノザなのか?

1980年代から40年近く新自由主義が「正しい」と信じられてきました。考え方の土台を作ったのがフリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマン。それを実行に移したのがサッチャーとレーガン。いまは、その反動で新自由主義が批判の的になりつつあります。その急先鋒がトマ・ピケティ(はやく"Capital and Ideology"の書評を書かなきゃ!)だし、ポール・クルーグマンだと思います。主に経済学の立場からの反論。政治からのアプローチはローレンス・レッシグくらいでしょうか。しかし、もうちょっと大きな哲学的な幹ってなんだろう?そんなときに出会ったのがスピノザでした。

スピノザって新自由主義の人たちがよく使う「自己責任」を考える上で、とても面白い存在なんですよ。しかし、スピノザは教科の中に入っていた記憶がありません。デカルトもダーウィンも入ってたのに。別の学校だったらあったのかもしれないけど。少なくともボクは完全にスルーでした。じゃあ、スピノザってどんな考え方なのか?それを知りたいと手に取ったのが「100分de名著」の解説でした。

学び方を学ぶ

哲学を理解するのに大事なのが言葉の定義です。例えば、スピノザ『エチカ』の場合はこんな感じではじまります。

自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する(第一部定義1)

おそらく、読み続けていけば太字にした「自己原因」、「本質」や「本性」の定義がわかるんだと思います。しかし、読み初めの時点では分からない。分からないまま読み進めるしかない。スピノザにはスピノザの意図があって、そのような構成にしているのだとは思います。しかし、國分功一郎は第一部からではなく、第四部から読むことを提案しています。第四部の方が『エチカ』全体の序文として分かりやすい。実はスピノザの研究の順番もそうだったのだそうです。

この「後半から読む」は、同じ「100分de名著」シリーズで西田幾多郎『善の研究』 を解説した若松英輔が書いていたことと同じだったりします。これってまさに「インプットの仕方を学ぶ」です。1ページ目から順番に読んでいく方法もあるし、後半から読む方法もある。これはなるほどと思った部分です。多分、何のテキストもなしで読んだら、1ページから読んで挫折していたと思います。威張ることではないですが、これは自信があります。

スピノザの考える「自由」

新自由主義の人たちがよく言う自己責任論の根底にあるのが人間の自由意志です。人間には自分が望むことを、自分の意志に従って行動に移すことができる。自分の自由意志で行動したのだから、その結果も受け入れるべきである。これが新自由主義の自己責任論の根底にある考え方です。

この自由意志についてはこれまでたくさんの哲学者が議論してきたテーマです。自由意志はあるのか?ないのか?その自由意志を神様に委ねてしまったのが聖アウグスティヌスなどのキリスト教の人たち。それを市場に委ねたのがアダム・スミスの『国富論』だし、新自由主義のベースです。

これに対してスピノザは「自由意志はない」立場をとります。もうちょっとちゃんと言えば、「意識」と「意志」を分けましょう。そして、意識と意志の個人がコントロールできる制限を知りましょう。「歩く」行動ひとつとっても、全てを歩く機能を「意識」して動かしていない。筋肉や神経が勝手に動いてくれている。人間の脳は全てを意識しなければ行動できないようにはできていないんです。

そして、意志も「能動的な意志」と「受動的な意志」がある。國分功一郎が本書で取り上げているカツアゲの例がとても分かりやすかったです。ボクがナイフで脅されてお金を要求されたとする。そのときにお金を渡すのはボクの意志ですよね。しかし、これは他人に強制された「受動的な意志」の側面が大きい。自由意志とは言えない。スピノザ的な「自由」の反対語が「強制」なのだそうです。意志の存在は否定しないけど、完全に自由な意志はないですよね、と言うのがスピノザのポジションなのだそうです。

現時点でスピノザの『エチカ』を全く読んでいないので、これでスピノザを理解したとは言えません。しかし、スピノザを理解するアプローチは理解しました。汎神論とかの部分も面白そうですが、まずは第四部の「感情の力について」についてを読んでから、一番興味のある第五部の「人間の自由について」を読んでみようと思います。

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