自分に向けた文章を書くこと:書くことは難しい⑨

ストレッチポールに体を横たえながら、この1ヶ月のことを思い返しました。コロナは相変わらず収まる気配がありません。それに東欧はひどいことになっています。足元が思うより不安定で、グラグラして身動きができない。行く先が見えず歩くのにも力が入る。口からうまく言葉が出ず、胸がつまる。苦しい時間が続いています。

こういうとき、僕にとって書くことや話すことは、難しいものになります。その無意味さに打ちひしがれる。これはコロナ以前から感じていたことです。書くことは難しい。そんなことを書いて何になるの?話したところで誰が聞くの?と頭の中で誰かが言う。否定の声は、はっきりと鋭利な形をしています。

言語には身体がある、最近はそういう実感があります。言語それ自体も僕たちの身体で、僕たちの身体は言語によって拡張される。生身の身体が疲れると、言語も上手く扱えなくなる。そして普段、言語は道具として使用される。言語の道具的使用というと、千葉雅也さんが「勉強の哲学」第1章で書かれていました。道具は壊れる。メンテナンスを怠ると、言語の道具的な使用がし辛くなる。油を差さないと言語は軋む。

言語の身体も生身と同じように、疲れ動けなくなるときがある。千葉雅也さんの「勉強の哲学」では、第2章でアイロニーの過剰について触れられています。何に対しても、ツッコミを入れることはできる。はっきりしたものなんてない。考えても考えても確かなものはない。言語の身体は荒み、疲れる。みんな違ってみんなダメなのだ。諦観し露悪的に振る舞う。だってそうでしょう、深く考えたって仕方のないことなのだから。

そういう無意味さを前にして動けなくなる。進む先がまったくの袋小路に見える。そんなとき僕たちはどうしたらいいのでしょう。先ほど紹介した「勉強の哲学」の中にも工夫が紹介されています。ぜひ読んでほしいと思います。ただ今回は、また別の本から工夫を見つけたいと思っています


先人の存在は偉大です。袋小路を前にして観察し考え、文章を書いてくれる方々がいます。そういう方たちの文章に出逢ってきました。

「意味のないところを眺め、その中で世界を記述すること」が、ひとつ僕たちが自分の沈黙のためにできることだと思うようになりました。これが、今の僕が大事にしている考え方です。


若松英輔さんの詩集「燃える水滴」より、ひとつの詩を引用します。

コトバの人

詩を書くなら
詩の役割など
関心がない人のために

文学を論じるなら
言葉のちからなど
信じていない人のために

本を編むなら
日ごろ 頁をめくる
暇もなく 生きている人のために

神を語るのなら
神など存在しない
そう いう人たちと
言葉をかわすために

祈るのなら
祈っているだけでは
現実は変わらないと
いう人たちの分も
若松英輔「詩集 燃える水滴」p30


僕はこの詩が好きです。この詩に幾度もでてくる「人」という言葉。それを僕は僕自身の一部に重ねます。この詩は、僕の一部として存在する「言葉を簡単には信じることができない」自分のために、自分で文章を書くことを肯定してくれているようで、背中を押してくれる言葉です。


吉本隆明「講演集〈12〉芸術言語論」。今回のnoteを書こうと思ったのは、おそらくこの本の冒頭部を読んだためだと思います。

言語においては、沈黙の幹・根というものが最も重要な基底であり、コミュニケーションはあくまで枝葉の問題として出てくる。この自己表出と指示表出を経糸と緯糸のように織り合わせてできたものが、いわゆる言語というものです。
吉本隆明 <未収録>講演集〈12〉芸術言語論 p17
つまり、人間はある表現をすれば必ず、それを特徴とする人間に変化するわけです。(中略)この変化は要するに、自然との相互作用なんですよ。人間が自然に何かを加えようとすると、人間のほうも逆に変化させられます。
吉本隆明 <未収録>講演集〈12〉芸術言語論 p20

僕たちの身体と言語の身体の相互作用。文章を書くときに忘れたくない話です。

僕たちの中には、否定、拒絶の言葉が沈んでいます。反芻され、自らを苦しめる。言語の身体がぬかるみに沈みうまく動けなくなるように、僕たちは否定や拒絶の前に沈黙します。言い淀み、気落ちし、無意味さから逃げたいと思う。

自分の中にあるそういう言葉は、ときに水面下から顔を出し、他人に向かう。個人のもつ言語の身体はときに敵対する。でもそこに付き合わないこと。それが大事なのだと、千葉雅也さん・國分功一郎さんの「言語が消滅する前に」を読んで思いました。権威主義でない権威、そして礼の発生を考えること。そのためには自分と向き合い、同時に世界を記述することが必要だと思います。だから、いくつになっても勉強は必要なのでしょう。

最近は風景を記述した文章に、世界の肯定を垣間見るようになりました。昔は文学をほとんど読まず、読んでも小中学生向けのSF小説くらいでした。今も読む数はそう多くはないですが、昔よりも面白さを感じます。国木田独歩の「忘れえぬ人々」。青空文庫で読めます。冒頭の寒々とした風景描写が生き生きと目の前に立ち上がります。

その人がどんな風に世界を見て、どんな言葉で記述しているのか。記述にはどんな工夫があるのか。世界を観察して記述する文章は、複雑な織物のようで、魅入ってしまいます。こんな風に世界を見ることができる。こんな言葉で記述することができる。他人の言葉で出来ている僕たちの言語身体に、新しい服を見繕う。


書くことは未来の自分に賭けること。素敵な言葉です。磯野真穂さんがご自身のブログで書かれた言葉です。

未来に賭けたいのであれば、自分の身体と向き合い、自分に向けて文章を書け。それは準-他者として、あなたの側にある。文章を書けたのなら、文章はあなたをそのままにしてはおかないでしょう。

そういうメッセージを、僕はそこに読みました。目が覚めるような言葉です。大事にしたいと思っています。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。いまは鈴木雅大さん訳、G.ドゥルーズの「スピノザ 実践の哲学」や、磯野真穂さん「他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学」、和泉悠さん「悪い言語哲学入門」などを読んでいます。これからも読んだ本を元に考えたことをnoteに書いていきます。お読みいただければ嬉しいです。

(ねこやなぎ)

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