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「自分で考えなよ」が苦手な話/考えること①

昨日すこし負荷のかかる文章を書いたので、今日は何も書けなそうだなと思っていたのですが、ちょっと面白いものを読んだので、日記を書きます。

今日はお昼に自宅でステーキとベーコン入りポテトサラダを作りました。Twitterで人気のとっくん@27歳さんのレシピ本を参考にしました。

レシピではステーキのソースも作っていたのですが、今回はわさびと醤油で食べました。さっぱりしていい感じです。

ご飯抜きだったのですが、それでもけっこうヘビーな食事になってしまって、夜はさっぱりしたそばにしました。

ご飯を食べ終わってから、いつものようにスプマラトゥーン2をやり、合間に本を読んでいました。「日本語練習帳」という本です。

まだ読み始めたばかりなので、全体的な内容について触れることはできません。ただ、面白い一節を見つけましたので、「考える」ということについて、書きたいと思います。

「自分で考えなさい」が苦手

考えるという語句を見ると、このフレーズが頭に浮かびます。「自分で考えなさい」。誰かにそう言われたことがある方、きっといらっしゃると思います。わたしも、もう誰に言われたのか覚えていませんが、「自分で考えなよ」という自分の声は常にあります。すでに内面化されているくらいには、「自分で考えなさい」という圧力を感じています。

「自分で考えなさい」という言葉が、わたしは苦手です。誰かにそういわれると、何をしたらいいのか一瞬わからなくなります。相手が意図しているのは何か。わたしは何を考えるべきと思われているんだろう・・という時間が訪れます。そして、何をするべきか分からず考える時間は辛いです。自分はおそらく何かのルール・規範から逸脱している。罪悪感がある。でもどうしたらいいかわからない。うーん、無力だ・・となることがよくあります。

「自分で考えなさい」とは何か

「自分で考えなさい」と言われるとき、いったい何を求められているんでしょう。とりあえずこの問いを考えようと思います。思うのですが、この問いは難しいです。どう考えたらいいのかわからない。

なので、まずは「考える」ことについて、少しずつ考えていきます。考えるとは何か。

とりあえず、「考える」についての文章を集めます。今回は、先ほど紹介した「日本語練習帳」(著 大野 晋)のp7から、文章を引用します。

……「考える」という言葉を古くさかのぼると、罪人を刑罰に処するときに、「……に勘ふ(引用者註:かんがふ)」と言いました。「考える」の一番古い例を『日本書紀』に求めると、一つは「刑罰を決めること」です。……犯罪者の実際にやった悪事が、刑罰の条文のどれに当たるかと事実と条文を突き合わせて決定すること。それが「かむがへる」でした。また、戸籍帳の記載と実際の田畑の配置を突き合わせて調べることも「校ふ(引用者註:かむがふ)」といいました。つまり「事柄を突き合わせてしらべる」のが「考える」の最古の使い方です。

ここでは「考える」の意味について一つ紹介されています。引用文によると「考える」とは「事柄を突き合わせてしらべる」こと。何か規範となるもの(引用文でいう条文や戸籍帳)があり、目の前の事象がその規範のどれに当てはまるかを確認すること。それが「考える」の一つの、また最古の使い方だったようです。

この意味での「考える」は、演繹的だと思いました。AならばB、CかつDならばE……というような規範があり、目の前の事象がAなのだから、これはすなわちBということだ。というのが、ここでいう「考える」、すなわち「突合」のやっていることだと思います。そしてもしこれが正しいのであれば、「自分で考えなさい」と言われた私たちがすべきことは、

 ⑴目の前の事象のことを知り

 ⑵判断の基準となるものを探す

ということになります。引用文でいえば、犯罪人が犯罪をおかした疑いがあるならば、犯罪の内容について個別具体に列挙し、条文を探して、突合する。ということになります。

では、「自分で考えなさい」と言われたとき、それは全て「自分で突合しなさい」と言われたことになるでしょうか。ここが微妙なところだと思っています。

「考える」ことの続き

「日本語練習帳」の文章をもとに、「自分で考えなさい」ということについて、少し書いてきました。ただ、これだけの検討では不十分だと思っています。考えるべきだと思っていることについて、少し書いておきます。いつか文章にしたいと思っています。

1つは、「考える」ことの多義性についてです。先ほど話していた「考える」は演繹的だと書きましたが、それは内包的であるとも言えそうです。それとは別の、帰納的な、あるいは外延的な意味での「考える」もあると思っています。上の例でいうと、そもそも条文に合致しないような事象が出てくる場合ですね。「考える」とは飛躍を含むものだ、という場合が、この帰納的あるいは外延的な意味なのかなあと思っています。

もう1つは、「自分で考える」の「自分で」についてです。主体、意志、あるいは責任についての話と接続できそうだと思っていますが、上の多義性の話よりもまとまっていません。
私たちが誰かに「自分で考えなさい」と言われるとき、そこには権力の勾配があると思っています。上司と部下、あるいは先生と生徒といった風に。そして、その言葉の中に、「自分の責任で」考えなさい、というニュアンスを読み取ってしまいます。この話については、「中動態の世界 意志と責任の考古学」(著 國分 功一郎)をとりあえず読む必要があるなあと思っています。

今回の日記はこれくらいにしようと思います。考えることについて、これからも書こうと思います。おやすみなさい。

(ねこやなぎ)

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