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弱さについての羅針盤/書くことは難しい⑦

最近は弱さについてちょっと考えています。

以前、「頭の中の皮肉屋さん/書くことは難しい②」にて、「否定を乗り越えること」について少しだけ書きました。



書くという行為はアプトプットの一つなわけですが、このアウトプットにおける否定との付き合い方を考えるときに、一見迂遠かもしれませんが、「弱さ」について考えることが必要なんじゃないか、と思うようになりました。

ただ、書くことにおける否定に対して、弱さをどう位置付ければよいか、あるいはそもそも弱さとはなにかについては、よく分かっていません。そんな状態です。

なので、自分が知っている本の中で、弱さについて考える上で手がかりとなりそうな本を列挙しておこうと思います。これから弱さについて考えるための羅針盤になりそうな本を、載せていこうと思います。

「哲学な日々 考えさせない時代に抗して」
(著 野矢茂樹)
弱さってなんだろうと疑問に思ったのは、はっきり記憶がある限りだと、この本の一節を読んだ時でした。

無一物の自分に落ち着くことを座布団の上で繰り返しているうちに、いわば根拠のない自信が湧いてくる。自分は人より優れているからといった根拠のある自信は脆い。(17根拠なき自信 p46より)

この一節がおもしろいと思うのと同時に、自分の中に優れた人に対する劣等、ルサンチマンがあるのを自覚しました。
この本で紹介されている「本来無一物」という言葉も、印象に残りました。

わたしが気に入っている禅語に「本来無一物」という六祖慧能の言葉があるが、丸裸の自分に立ち返ることができれば、そこに十分な言葉が現れてくるというのである。(12引き算の思想 p36より)

「なぜ、私たちは恋をして生きるのか」
(著 宮野 真生子)
九鬼周造の研究内容である「いきの構造」や「偶然性」に触れつつ、わたしたちはなぜ恋をして生きるのかという問いに向き合う本です。

偶然性とは何か。私たちはそれをどのように体験するのか。それを知るには、偶然性の裏側にある必然性を考える必要がある。なぜなら、「偶然性とは必然性の否定」であり、必然を破ることで成立するものだからである。(第2章 他者と出会うということ p47 より)

「急に具合が悪くなる」
(著 宮野 真生子、磯野 真穂)
「書くことは難しい」でも何度か登場している本です。合理性や物語性とコントロールの欲求、偶然と必然、憤ること、他者、ジャンプ、そしてラインを描くこと。弱さについて考えてみる上でも、この本はとても面白いんじゃないかと思っています。

「弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術」
(著 立岩 真也)
弱さについて考えてみる上で1つの核になる本だろうと思っています。所有、制御、都合のいい自己決定など、弱さを考える上で必要な要素について広く書かれています。この本をしっかり読んだうえで、他の本とどう連関できるか、試してみたい気持ちがあります。

「競争社会の歩き方」
(著 大竹 文雄)
私たちをとりまく「競争」について、行動経済学等の視点から分析してみた本です。価値、競争、資本制などについての記述は、現代における弱さとどう関わりそうなのか、気になっています。ここでは、「怒り」について書かれた文章を引用してみます。

感情が私たちの意思決定に与える影響についての多くの研究結果をまとめたアメリカ国立衛生研究所(NIH)のフェラーらの論文に基づいて、怒りと意志決定の関係を紹介してみよう。怒ってしまうと、私たちは、不確実なことでもより確実に生じるように感じ、周囲のことを自分で統制できるように感じるという。未知の危険や恐ろしい危険をあまり感じなくなり、その結果、リスクのあるものでも受け入れるようになるのだ。また、問題の責任が他人にあるように感じる傾向があるともいう。(第3章 感情と経済 p68より)

「勉強の哲学」
(著 千葉雅也)
哲学者である千葉雅也さんの書かれた著作の中でも、広範に読まれている一冊らしいです。ここでは、マゾについて書かれた一節を引用します。

それに、不自由であることは必ずしも悪いことではない。むしろ、まさしく不自由が、縛りが、快楽の源泉になる。これは人間のすごいところです。いやなことを最低限にでも楽しもうとしてしまうーーこれを、精神分析学では「マゾヒズム」と呼びます。
 人間は、根本的にマゾなんです。
(第1章 勉強と言語ー言語偏重の人になる p21より)


著者の千葉雅也さんが昨日書かれたnote「仕事の紹介」やTwitterの文章も、弱さについて考えるための足掛かりになりそうだと思っています。

「痛みの哲学」
(著 熊谷晋一郎)
脳性まひの当事者であり医師でもある熊谷晋一郎さんが、様々な分野のゲストと「記憶」「快楽」「言葉」「ケア」をテーマに語った内容をまとめた本です。この本もとても刺激的です。以下、少しだけ引用します。

・・記憶と痛みの深い関係でいえば、特にフラッシュバックもそうですが、物語化・意味づけできる身体の感覚は痛くないことが多い。ところが、「この痛みはなんなのだろう」とまったく意味づけできないときに、その感覚はいつまでも痛みつづける。どうもその物語化・意味化との関係でこの慢性疼痛を捉える必要がありそうだということまでは臨床の現場で分かってきました。(第1章 痛みの記憶/記憶の痛み p19より)

以上に挙げました本と直接関わりはありませんが、最近「ウィークネスフォビア」という言葉も知りました。Google scholarにもいくらか論文がありそうです。この用語についてはこれから勉強なのですが、思考の取っ掛かりになりそうなので、ここに書いておきます。

(ねこやなぎ)

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