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看護師だけど看護師じゃない働き方③

今日も読んで頂きありがとうございます。
2回で終わらせるはずが3回目になってしまった私の仕事History。これが最後です!

CRC人生のスタート

初めての一般企業で私の社会人生活ver.2がスタートしました。
一生忘れないであろう1年目の知識と教養の浅さ…
普通に一般企業で勤務されている方ならば当たり前の事を全く知りません。
・名刺交換
・服装=オフィスカジュアルとは????
・お茶出し
・ビジネスメールandビジネス用語 その他諸々
特に苦労したのは服装です!
普段私はファション雑誌は立ち読み程度、
コンサバ系の雑誌は縁がありませんでした(@_@;)
毎日ネット検索、ユニクロのオフィススタイル特集をチェック、ありとあらゆる媒体で情報を集め、先輩に聞き1年目を乗り切りました。
これまで看護師時代には気にならなかった被服費が結構痛かったです。
※看護師→一般企業への転職を考えている方は被服費を確保しておくと良いです!

肝心のCRCの仕事に関しては、面白くて仕方がない。【覚えることが多くて辛い】より
【こんなに知らない事があったんだ】とアドレナリン過多状態でした。
CRCの仕事は私にはRPGゲームをしている感覚に似ていました。
仕事をゲームなんてなんだと思っている!とお叱りを受けるかもしれません、私個人の中では一番しっくりくる表現ですのでお許しを🙏
CRCとして働く中で治験=ミッションをクリアする。その為に必要な仲間、武器、アイテムを集める。こんな感じです。
例えば…(ドラクエだとして…)
・メイン担当CRC=勇者
・サブ担当CRC数名=魔法使い、戦士、僧侶等
・武器=社用PCとスマホ←無いと仕事になりません
・アイテム=プロトコール、同意説明文書、治験薬概要書、その他関係書類全部!
まだまだありますが、着実に積み上げていってそしてミッションクリアまで辿り着く。スムーズに行くときもそうじゃない時も案件が無事終了した時は達成感と安堵でいっぱいでした。
なにより、担当した治験薬が承認申請を通り発売になった時は格別です。
治験を担当してくださったドクターから直接お電話を頂いたり、報告に伺った時には「いよいよだね。楽しみだね。」と一緒に喜べたり。

改めてCRCになりたてヒヨコ時代を思い返すと私は本当に恵まれていました。上司、先輩ともに何も知らない(メールのCC、BCCすら知らず)ど新人を受け入れて育てて頂き、担当施設のドクター陣も時々クセはあるけど【教える・伝える】という事が好きな方々に恵まれ相当量の知識を与えて頂きました。

退職と留学

恵まれた環境でのびのび仕事をしつつ、時々出張だらけのハードスケジュールで倒れる寸前まで働いていました。そんな中で研究・開発業界にもグローバルの波には押し寄せてきます。英語がわかれば仕事のスピードアップも図れる、メールGoogleに頼らなくても良い、
行くなら今しかない。というか元々いつか留学したいという思いはありました。
上司、社長に伝えたところ「是非とも勉強してきなさい」と。会社に籍は残し休職扱いで旅立つという計画でした。
ここで暗雲が立ち込めます。
ある日出勤してメールを開くと「●●時大会議室にてMTG※全員参加※」との配信。何も情報が無い状態でいざ会議室へ。
年1の声しか聞かない親会社の社長がZoomに映り「●●株式会社への株式譲渡及び吸収合併となります」と。青天の霹靂ってこういう時に使うんだ…と未だに忘れられません。

そこからは怒涛の様な日々です。合併先のオフィスへの移転が決定。
社名は完全に合併先になり私の会社は無くなりました。悲しかった〜泣
そして大問題が発生。合併年の4月に私は渡米する予定でした。新たに上司となった人は「合併して早々に休職とかありえないよね?」
あ、ここブラックだ。と直感。元の上司、先輩方も援護してくれましたが覆らず。結果的に退職か留学延期の2択でした。
私が選択したのは退職です。”郷に入っては郷にならえ”とは言いますが、残業が良しという文化、女性社員はヒール必須、頻繁な飲み会。
ここって昭和?大企業は私には合わないと判断しました。何よりもCRCという仕事を嫌いになりたくないという思いもあり辞めることを決めました。
最終出社日。ロッカーを片付けて、特に用も無いのでさっさと帰宅と思っていました。ところがエレベーター前で元の会社の先輩上司、同僚がひっそり待っててくれました。この時点で大号泣w
「明日も出社したら居るような気がする。寂しくてたまらない」ありがたいお言葉です。このご縁がなければ今の私は確実にいません。

そんな涙、涙でお別れをしつつ渡米の日を迎えました。ちなみに心配性な両親には全ての手続が終了した後に「海外留学でアメリカに行きます。」と宣言。
母「空いた口が塞がらないってこれだわ…」
父「誰から遺伝したその行動力は…」😂
そんなこんなで無事渡米しました。スーツケース2個は本当に重かった…。

アメリカ生活

無事に入国ができた後、私は語学学校の学生寮に入寮しました。
この時、女子学生がたまたま少なかった為ルームメイトはペルー人の子と私の2人のみ。その他は中東のお国のメンズ軍団9名。総勢11名の寮生活でした。留学時の生活は気が向けばnoteに綴ろうかなと思います…
ルームメイトの子は私より数日後に到着しました。
ペルーはマチュピチュと日系人の移住くらいしか基礎知識がありませんでしたが、お互い片言+Google翻訳、日本語とスペイン語の語学交換なんかを通してなんだかんだ仲良くなりました。
彼女はとにかく明るい、THEラテン系。そんな雰囲気に助けられて自然と笑顔で過ごせました。
本当にこの留学期間は貴重な経験をです。トラブルもハプニングも満載でしたが改めて日本という自分の国のメリットとデメリット、異国で暮らす難しさも学びました。
英語に関しては独学では習得できなかった”ニュアンス”の部分がかなりクリアになりました!語学って奥が深いとより学ぶのが楽しくなった。そんな私の留学生活です。
余談ですが、日本とアメリカ住めるならどっち?となると正直難しいです。あくまで私個人の感覚と感想ですが
【心の生きやすや】はアメリカです。滞在中は本当にストレスフリーでした。服装もメイクも本当に適当😂学校に行くときはそれなりに整えて居ましたが…。漠然とある”誰かに見られてる”といった感覚が無いのでものすごく居心地が良かったです。そして
【実際の生きやすさ】生活も含めて諸々はやはり日本です。安全面、社会福祉、生まれ育った国だからこそというよりも、街に一歩出る安全性がこれだけ確立している事は本当に貴重だと実感しました。
※学校近くにはスタバや商業ビルがありましたが、常にガードマン、そして壁には銃痕が合ったり…。これが普通の銃社会アメリカです。

帰国後の就活と人生迷走

帰国してすぐはCRCにまた復帰したいという思いが強くありました。しかしいざ帰ってくると「あれ?振り出しに戻る?」という人生迷走期間に入りました。しかし無職でも居られません。いっそやった事のない仕事をしてみようと契約や派遣社員で放浪し始めました。
東京→三重→大阪→東京→大阪→北海道(←現在地です)
こんな感じの放浪ルートです。やはり東京、大阪の賃金は破格です。三重県は何となく伊勢神宮に行ってみたいな〜くらいで行きました😂
住居費や光熱費を節約するために寮完備かつ光熱費負担の勤務先をできるだけ選びお仕事をしておりました。

ちなみに経験したお仕事は以下の通りです。
テレフォンオペレーター、特養施設の夜勤専従、訪問入浴の看護スタッフ
この内、東京で訪問入浴のスタッフとして勤務していた時に、大阪のスタッフ不足が顕著という事で契約更新と同時に大阪に移動しました。
訪問入浴はハードです。かなり良い運動になります。ルーティーン作業を覚えて、ルーティーンに+αが必要な利用者さんを覚えておけばかなりスムーズに動けます。そして時給が良い…。
体力に自信が無い、潔癖という方は確実に続かないと思います。その点は全く問題ない方には合っているかなと個人的な見解です。
基本的に在宅療養されている子供〜高齢者までが相手です。気配り目配りも必要ですが、「お風呂が気持ちよくて毎週楽しみなの」とニッコニコの利用者さんと間近で関われます。決して楽な仕事ではありませんが社会的に意義のある仕事だと経験したからこそ感じています。
そんなこんなで久々に看護師さんと呼ばれる仕事もしました。
ちなみにこの中でもう十分かなと思うのはテレフォンオペレーターです。
夜間の体調不良の相談等を受け付けるものでした。
出た瞬間から相手は不機嫌、ただしこちらもマニュアルというか進め方あり「分かるよ…早くしろって気持ちはわかる!でも怒鳴らないで〜」という事が頻回でした。もちろん相手は体調不良で心の余裕がない。
そんな時にマニュアルなんてそりゃ腹も立ちます…。
精神的にかなり削られました。自分自信の戒めに、カスタマーサービスに電話する時は丁寧に話そうと心に誓いました。

迷走を経てCRC復帰

そんなこんなで2年程私はスーツケース1つで放浪しておりました。この間になにか資格を取りたいなと思って【医療通訳】の検定試験を受けて合格となりました。
各地をフラフラしつつ時々実家の北海道に帰省するといった生活を続けている中で自分自身では住所不定有職という状態を満喫していました。
組織に縛られる事も、人間関係もストレスの元となるものが無い。
特に大阪では大阪府内でも北側に位置する場所に住んでいた為、休みの時は京都か奈良にさくっと遊びに行ける。この環境も最高でした。
※唯一のデメリットはゴキブリです…。

放浪が終了したきっかけは祖父の体調でした。高齢ですが頭は私の父よりも柔らかく、私が看護師を辞めた時も、留学を決めた時も「子どもが進もうとしている道を親が止めるな」と両親に言ってくれるなど全面的に孫サポーターの祖父です。私自身子供の頃から一番なついていました。
そんな祖父がたまたま帰省して祖父宅に行った時です。
「あんまり遠くに行ってほしくないな」と一言。今までこんな言葉聞いた事が無くて衝撃でした。母からは体調が不安定なことが多い事が要因かもと…
ですがこの一言で”放浪はおわり。帰ろう”と決意しました。
これまでずーっと甘やかしてくれて、守ってくれて、味方になってくれた祖父の言葉です。適当に生きてちゃいけないと心を引き締めました。

そこからは何かの力が働いていたのか、偶然元上司に再会して現在の職場でCRCとしてお勤めしている事が判明。そして「欠員を募集している。できれば経験者で。良かったら来ない?」これで就活が終わりました。
そして現在、私は院内CRCと医療通訳として働いております。
加えて、時々ですがボランティアで経済的に塾等に通うのが難しい
小中高校生に英語を教えています。
気にも留めていなかった事に質問が来るのでこちらも勉強になります。

おわりに

3回に分けて私の職歴Historyを書いてきました。
自分で書いていても何やってんだか…と思ったり😂
両親にも心配かけ通しでようやく最近は落ち着いているなという状態です。

看護師になった、けれども私はドロップアウトしてます。本来なら様々な症例を学び経験を積み重ねて次に世代に繋げる事が【育成】。
大切な部分を放棄したことになります。
ですが私の場合、日勤・夜勤の働き方、何年経とうとも変わらない病院という箱の中の人間関係、これがどうにも自分の心にフィットさせることができませんでした。

安定した【看護師】という道を外れて後悔してないのかと聞かれる事もあります。
”後悔はない”とはっきり言えます。
まっすぐな道を外れて曲がりくねった方に行ったからこそ見えた事、学んだ事、出会えた人とたくさん財産があり、それは今も続いています。

もしこの記事をみて「私って看護師にむいていない…」「看護師じゃない働き方がしたい」なんて人がいたら
【看護師】=【病院・クリニック他諸々】にこだわらない事で道が開けるかもしれません。
もちろんお給与面や勤務条件でのメリット、デメリットはたくさんあります。※私自身年収の面では下がりました。

”何がしたいか”も大事です。
でもこれらも大事だとこれまでの経験から感じています。
・何ができるか=自分が持っているスキル(武器)は何か
・どんな環境が合っているのか=自分がフィットさせることが出来る場所

意外なところにもの凄く自分に合った仕事、環境があるかもしれません。
すぐには見つからないけれども、今の状況を変えたい!自分を変えたい!と思ったら愚痴を言うより情報収集です。

この春晴れて看護師学生になった皆様、そして看護師になった皆様、そして全ての新入生、新社会人の皆様へ。本当におめでとうございます。
どうか身体と心を大事に進んだ道を歩いていけますように。私も日々学ぶことを忘れずに(時々はサボって休みましょう👍)進もうと思います。


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