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小学生~精神科通院開始まで


小学生の頃

小学生の頃から自殺願望はあった。
飛び降りしようと 窓を乗り越えてずっと立っていた。
1回だけカップルらしき人が僕のことをじっと見ていたのは今でも覚えてる。
あのとき飛び降りしていたら 確実に死んでいた。身体がいまより小さく 骨も未熟だから。助かったとしても寝たきり生活だったと思う。

小学高学年の担任は エコヒイキをする先生だった。僕はそっちがわの人間じゃなかった。
そのため僕は学校を休みがちになった。1回 担任が迎えに来て一緒に学校行ったことがある。そのとき クラスメイトは図工室で授業を受けていて 歓迎してくれた。

中学生~引きこもり

中学1年生になると あるクラスメイトが 僕のことを無視して 完全に行けなくなった。ある男の子とすごく仲良かったからだと思う。その子は人気者だったから。

私立中学に転校するまで引きこもりだった。祖父母の家に遊びに行った時 何故か祖母が通っている精神科に連れてかれたこともある。

長期にわたる引きこもり生活で僕は対人恐怖症になった。
乗り物に乗れなくなった。散歩や 私立中学も親と一緒に行くようになった。引きこもりによって 体重は増えて70㎏になっていた。(のちにダイエットをしてかなり落とした。その結果月経が止まって婦人科に通うことになる。)

高校生

高校は通信制の高校に通うようになった。

僕は人見知りであまり友達はできなかった。(私立中学もだけど)
僕は根暗で近寄り難い雰囲気をだしていたんだと思う。名前は忘れちゃったけどカメラが好きな子がいて その子とは何回か話したことがあるくらい。

通信制なので普段は自宅がメインだけど スクーリングがあった。
対人恐怖症は治ってないし乗り物が怖いのも治っていない。結果 スクーリングは親が着いてきてくれることになった。
僕みたいにおそらく対人恐怖症の女の子がいて その子も親が一緒に着いていた。授業も親と一緒に(もしくは1番信頼してるスタッフさん)受けていた 席はドアの近く。

このとき 祖母が通っている精神科の先生が「僕のことを気にしている」という話を聞いて 対人恐怖症も治したかったし 先生に診てもらった。そこでジプレキサ2.5mgを出された。
このジプレキサ。半錠でも飲むと 1日2日は昏々と寝てしまって困った。高校に行くために飲んでいるのに寝てしまう。本末転倒である。スクーリングに行くからと飲んだら 映画の授業で爆睡してしまったこともある。

3回目くらいの診察で 高校に親と一緒に行っていると話した時
「え?将来どうするの?」と笑いながら僕に言った。
笑いながら言われたことがショックで 僕は精神科に行けなくなった。その出来事がトラウマになって こころの具合が悪くなっても精神科に行けなくなった。ようやく行けたのは2021年になってからだった。(精神科通院開始~自殺未遂までの話を読んでくれると嬉しいです。)

僕はなんとか親や 高校のスタッフさんと一緒に頑張って通信制高校を4年で卒業した。

アルバイト

僕が経験したアルバイトは
・年賀状仕分け(郵便局短期)
・特殊室4h(郵便局長期)
・調剤事務(調剤薬局事務)
である。

年賀状仕分け

初めてのバイトは高校生の頃に体験した。
年賀状仕分けは個人的に初めてのアルバイトにうってつけだと思う。
引きこもりの人がこの年賀状の仕分けだけは毎年バイトできるという話も聞いたことがある。

僕がバイトした局は社員さんみんな優しくて(これは長期でもおなじだったけれど) 休憩室にはお菓子がたくさんあった。
確か 大晦日は早出(午前6時から午後1時)だった。
バイト終了して 数日経ったころ「〇通(正確な数は覚えていない)の年賀状をみなさまのおかげで配達することができました。」というお手紙が届いて嬉しかった。

特殊室

高校を卒業して僕は焦っていた。
今までは「高校生」という肩書があったけど 高校を卒業を今となっては「無職」になってしまう。当時は「何らかの仕事をしてないと自分には価値がない」という気持ちだった。

僕は年賀状仕分けをした郵便局の求人情報を見て「午前9時から午後1時」のバイトに応募した。でもその時間帯は主婦の人に人気で 僕は落ちてしまった。

その後 区役所で合同面接会があった。そこには郵便局内務の仕事募集もあったから。募集していたのは「午前5時から午前9時」だった。かなり早い時間だったけれど僕は早起きは得意だったから応募したいと思った。
面接はうまくいったけれど 数日後 郵便局から電話があって「話があるから来てください」と言われた。

そこで課長と統括課長と面接した。二人は「午前6時から午前10時に特殊室で書留関連の仕事もあって 人手が足りなくて できればその時間帯で仕事してください」と言った。僕はそれを承諾した。

仕事内容はコンプライアンス的に詳しくは言えない。
郵便局は研修があって2日間 8時間座学をしたり 実技をしたりする。服装もスーツ限定だった。これが地味に大変だった。

郵便局は福利厚生がしっかりしている。
僕は途中社保(協会けんぽ)に入った。残業をほぼ毎日していたためである。社保に入れたのは嬉しかった。
ボーナスも出るし 一年に一回健康診断も受けられるし インフルエンザ予防接種もできる。

社員さんは幸いみんな優しかった(癖はあったけれど)
Aさんという課長代理 Tさんという社員さんが仕事が早かった。この二人は実は年賀状仕分けのとき 僕と一緒に区分していた。(二人は忘れてしまっているだろうけど) 仲のいい二人だった。
お酒の話をしながら仕事をしたときもあった。楽しかった。

Aさんとは一緒によく特殊室以外の仕事もしていた。
いつからかAさんは僕のことを「ななちゃん」と呼ぶようになった。

ある日 Aさんとは別の課長代理が 僕が郵便物を区分しているとき そばに寄ってきて 話しかけてきた。

課長代理「何かほかの仕事をしているんですか?」
僕「してないです」
課長代理「じゃあ 勉強とか?」
僕「いや…」
課長代理「それで四時間だけしか働いてないんですか。気楽ですねぇ」

僕はその場で笑ってやり過ごしてたけど 家に帰って泣いた。確かに僕の年齢で四時間しか働いてないのは 世間的に見ればおかしいのかもしれない。でも当時僕は四時間で精一杯だった。
僕はその課長代理が苦手になった。

上の出来事があり 僕はだんだんこの職場が辛くなっていた。毎朝 仕事の時間が近づくと「行きたくない…」と母親にこぼした。手を握ってもらったこともある。

ある日 社員カードで出勤記録をつけようとしたとき ある張り紙が貼っているのに気づき よく見てみると TさんとAさんが異動するから送別会をする 的なことが書いてあった。
僕はショックを受けた。信頼している社員が異動してしまう。

出勤が辛いことが続いて  辞めると決心して「退職したいのですが」というと 統括課長が「もう少しだけ頑張ってほしい」と言った。でももう調剤薬局で働くことは決まっていたから 残っている有休を消化して 5月1日で退職ということになった。

Tさんは 異動前日 僕にこう言った。

「ななみさんは優しいから どこの職場でもやっていけるよ」

すごく嬉しかった。

調剤薬局事務

僕はかかりつけの薬局で働くようになった。(母親や叔母さんも働いている)働くにあたって 僕は医療事務を自宅で学び 資格を取った。
ASKULでピンクの白衣とピンクのナースシューズを注文してもらった。薬局でピンクの白衣を着ているのは僕だけだった。

調剤薬局の事務は 薬局ごとに違うけれど 僕が働いている薬局は
・患者対応
・レセコン入力
・ピッキング
・電話対応(ほかの薬局から「このお薬ありますか」という電話が多い)
・発注して 配達された薬のチェック 収納
・レセプト返戻処理
・調剤券入力
・軟膏や クリームを容器に詰める(ローションのミックスなど)
・一包化
など書ききれない。僕は頭を使うけれど一包化が好きだった。電話対応は苦手だった。

できない業務(薬剤師さんの業務)としては
・調剤
・子供のシロップ
・粉薬分包
・粉砕
など。

郵便局より仕事内容が多くて大変だった。レセプト返戻処理は医療事務講座で学んだものの 苦手だった。

途中から僕は精神科に通うようになり 精神科の薬は職場でもらうようになった。自立支援(精神通院)も職場に指定したし かかりつけ薬剤師さんも上司さんにした。
だんだん僕は精神状態が悪化して職場に通えなくなった。上司さんやほかの薬剤師さん 事務さんたちも分かっていたから何も言わなかった。僕は退職した。

さいごに

僕は郵便局2年 調剤薬局事務1年半働いた。今は無職である。(途中 調剤薬局事務に復職したけれど 続かなかった)

自殺未遂を3回(処方薬過剰服薬飛び降り)して 今は飛び降りの後遺症でリクライニングベッドにベッドテーブルを使い このnoteを書いている。(体が起き上がって維持できないため)

人工関節の手術などがひと段落して 仕事があればA型かB型で在宅の仕事をしたいと思っている。
そしていつかは精神科を卒業したい。何年もかかるだろうけど。

余談だけど 小学校の同窓会とかやってるのかわからないけどハガキもこない。中学校(不登校になった学校)なんて来るはずもない。私立中学も高校もXの更新は止まっていてわからない。


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