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『緋の城』 木崎さと子

とても怖い、そして言いようもなくセクシーな小説だ。
この物語には「女性」というものが万華鏡のように映し出されている。
母性と少女性。現実をさばくたくましさと妄想に浸る危うさ。頑なに理性的かと思えば本能的な心のブレにはしなやかに従う。
「わたし」は、そんな女性という性が持つ特質を体現しているかのようなヒロインだ。
そのさらけ出された女性性の暗い部分が怖く、そしてさらけ出されているというそのことに官能を感じる。

・アパルトマン

物語は、「わたし」が夫と息子と共に、パリのアパルトマンの内見に行っているところから始まる。
夫の赴任のため家族でパリに住むことになったのだが、家族のパリ経験は長く、10歳の息子も生まれてから8歳までをパリで過ごしている。

そのアパルトマンは、旧式の昇降機がある古い建物だった。その建物はパリに初めて来たときの苦しいような圧迫感をよみがえらせ、こんな建物で息子を育てることはできない、と「わたし」は思う。
そして部屋に入った「わたし」は、その居間の内装に息をのむ。
そこは、カーテン、絨毯、ソファの布張りばかりか本棚に並ぶ本の背まで真紅の部屋だったのだ。

どの部屋にも古びた家具が置かれていたが、掃除が行き届かず、汚いというほどではないが薄く垢づいている。それに何より、他人に賃貸するような状態にはなかった。あちこちに個人的なものがあふれ、それを片付けるだけでも一月はかかるだろう。

アパルトマンに対する第一印象は全く良くなかったはずの「わたし」なのだが、突然気持ちを変える。
そのきっかけは本棚の本だった。

ふしぎな確信が湧いた。ここの本棚に並ぶ本は、きっとわたしの好みに合うだろう。
その瞬間、このサロンにあるすべてのものがわたしに身を寄せてきたようだった。

こうして一家はその真紅の部屋を持つアパルトマンに住むことになる。

・シュザンヌ

住み始めてすぐに「わたし」は、このアパルトマンに住んでいてたった10日前に亡くなったらしい、シュザンヌという女性の影を追い始めるようになる。
アパルトマンの家主である青年はシュザンヌの息子を名乗り、「母は半年前に亡くなった」と話していた。しかし偶然見つけた死亡証明書の日付は10日前。しかもシュザンヌの友人らしき人物は「彼女にいるのは息子ではなく娘」と言う。
不可解な事態だが、「わたし」はそこにはあまりこだわらず、ただシュザンヌという女性一人に興味を募らせる。

シュザンヌは室内に偏在し、わたしのすることを見ている・・・・・・気配を感じて、わたしが振り返るとき、きっと無数の女の影が、わたしをじっとみつめていた。食堂にもサロンにも張ってある鏡が、わたし自身の映像を繰り返しているのだ、とはむろん分かっているのだが、そこからわたしに向かってくる視線が、奇妙なことに、わたしにはシュザンヌの視線としか感じられなかった。

家具や蔵書、そしてソファの覆いの布や本の頁の間から出てくる縫い針(危険!)。。。
ここに暮らし、57歳でこの世を去った一人の謎めいた女性の面影を、「わたし」は取り憑かれたように追いながら日々を過ごす 。
シュザンヌの気配を感じ、幻想であるその影をまるで本当に存在しているかのように感受しているヒロインの様子は、どこかフランソワ・オゾン映画のような雰囲気があって美しい。

・3人の母

そんなパリでの「わたし」の生活には夫と息子の他に、2人の若い男性が加わってくる。
夫の親族である画学生の遼と、「わたし」の親族である学者の徹である。
遼は絵の勉強と称してモラトリアム期間を過ごすため、徹は研究機関で働くために、それぞれパリにやってきたばかりで、そんな彼らを、「わたし」は面倒と言いつつもなにくれとなく世話する。
その姿はともすれば母親のようだ。

そう、この小説の大きなテーマは「母親」であり、そこには3人の母親が登場する。
「わたし」、シュザンヌ、そして徹の母親の三保子である。

徹は日本からパリに、母の遺品である着物と、彼女の書いたものが載っている同人雑誌などをまとめて送ってきていた。その荷物は「わたし」のアパルトマンに届いている。

深紅の部屋のどこかに隠れているシュザンヌ。いや、そのときにはすでにシュザンヌは、遍在する魂のように常にわたしとともにあった。そこに三保子が豪華な婚礼衣装を持って加わったような気がした。

2人で荷物を開け、アパルトマンの深紅の部屋に艶やかな和服が広げられる幻惑的なシーンは、3人の母親が揃う場面でもある。「深紅の部屋」から子宮を連想するのは想像の飛躍だろうか。

シュザンヌの母親としての姿を「わたし」は憶測で想像するだけだが、シュザンヌとその子供との関係は、穏やかな愛に満ちたものではなかったように思われる。
そして三保子もまた、悲しい母親であったと「わたし」は知る。

「母のことは思い出さないのが供養なんです」と言う徹は、相当の屈託を母親に対して抱えているようだ。
エリートの学者である徹だが、学者らしいとかインテリ風だと言われることに対して、顔が歪むほどの嫌悪感を示す。
女手ひとつで徹を育てた三保子が、ただ徹にまじめ人間であってほしい、科学者になればまじめな一生が送れるであろう、と言ったとしても母としてありふれたことではないか、と「わたし」は思うのだが、徹はそれが母親による「去勢」であったと強い言葉を放つ。
「ぼくは壊された」という徹の言葉は底知れぬ恨みをたたえており、背筋が寒くなる。

そんな徹を気にしているうちに、世話を焼き、その親切に対する感謝や感激を示されないことに苛立ち、さらに徹が娼婦と会っていることを知って憤るなど、「わたし」は息子をコントロールしようとする「母親」そのものになっていく。そして徹はそんな女の傲慢を鋭く突く。

──ぼくを助けたいという親切なお気持ちから、お料理を持ってきてくださったのではないんですか。お料理を頂けば、ぼくは助かります。それだけでは、いけないんですね?
わたしは、はっとなる。・・・・・・そう、それだけではいけない、喜んでみせろ、とわたしはいっていたのだ。「喜ぶ顔」という報酬を要求していた。

しかしそんな自分に気付きつつも、「わたし」には気持ちを持って行く先がない。

そして迎える底なしの暗闇のようなラストである。母親とはかくも因果なものなのか、と思ってしまう。
美しいだけではない「母性」の仄暗さと、「女性」の謎めき。仄暗く謎めいているからこそたまらなくセクシーで怖いこの小説には、何度でも読みたくなる魔力がある。