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『八月の母』 早見和真

越智美智子は、愛を知らない子供だった。
愛媛県伊予市。瀬戸内海の静かな海に面した小さな町。
ひたすら厳しいだけの父親が支配する、団欒もぬくもりもない家庭で美智子は育つ。

その父の死後、母親は男に頼って生活するようになるが、母が縋る男は美智子に劣情を向け、母は娘を守るどころか、嫉妬心を剥き出しにした。
そんな母の姿、男の卑しさを見続けた美智子は、愛や感情にほだされず、誰にも頼らずに生きていくことを決意する。

だが、そうやって美智子が選んだ生き方は結局、母親のそれと大差のないものだった。
中三で家を出た美智子は男から男へと情の通わない関係を続けて小金を貯めるが、最終的に、美智子の持ち金を盗んで姿を消した母が残していったスナックのカウンターに収まることになる。

子どもを持とうと思ったのは、きっと気まぐれからだった。そもそも誰が父親かもわかっていない。

何度目かの妊娠に気づいた美智子は、いつものように堕胎するつもりだったのだが、ちょっとした偶然による心変わりから、初めての出産をする。
1977年8月のことだった。

これからは二人で生きていくのだ。男でもなく、金でもない。私がエリカを幸せにしてみせるし、エリカが私を幸せにしてくれる。

産まれたばかりの娘を前にして、すさんだ人生を歩んできた美智子が強く前向きな決意を抱くこのシーンは、この小説においては数少ない、温かい血の通った箇所の一つだ。
しかしその決意の芽が太く成長するには、やはり土壌の栄養がなさすぎたのか。美智子の灯した小さな希望の火を、その後私たちが再び見ることはない。

男に頼るしか生き方を知らない母を蔑んだにも関わらず、娘にも同じ生き方しか示せない美智子は、まさに自身のもののコピーのような少女時代を、エリカに与えることになる。

〈ミチコ〉は四階建ての集合住宅の一階部分にある。エリカの自宅はその二階だ。

エリカの姿は、彼女の人生に交差した担任教師や同級生、恋人の視点から語られるが、そこにはエリカよりも、彼ら自身の物語が鮮やかに浮かび上がっていて、それぞれに読ませる。
担任教師の心に同居する正義感と、自らの生い立ちから来る個人的な感情、そして押し潰しきれない本能的な欲求。
同級生の、真面目な少年の顔の裏に隠れた鬱屈。
結局は彼女の業を共に背負うよりも逃げ出すことを選んだ恋人。
エリカとの関係を通して彼らが直面するのは、自らの抱える屈折と哀しい弱さだ。

それでも、エリカの孤独に気づき、手を差し伸べようとする彼らが、今度こそ彼女を泥沼のような環境から引き上げてくれるのであればという期待が湧く。だがそれはその度に裏切られ、エリカは、母の呪縛から抜け出すチャンスを掴み損ね続ける。
エリカにもまた、本能的に負けを選ぶ弱さがあることがやるせない。

祖母、母と同じく小さな町に縛り付けられたエリカの人生が行き着いた先は、市営団地の一室だった。
そこで暮らすのはエリカと、父親の違う3人の子供達だが、その部屋にはいつしか、上の2人の子供の同級生らが入り浸るようになっている。

いつでもゴムのドアストッパーがはさまり、鍵のかかることのない玄関。いつも漏れているタバコのにおいと不良たちの騒ぎ声。
そんなエリカの団地に、紘子という女子高生が長男に連れられてやってくるところから、物語は悲惨な結末に向けて転がっていく。
団地の中の有様、まだ小学生の末っ子の置かれた劣悪な環境に、嫌悪感が込み上げながらも、読み進めずにはいられない。

ゆるやかに地獄の底に通じている蟻地獄みたいだ。
・・・
この団地に集まってくる人間が、みな等しく抗うことを諦めているからだ。みんなが同じように自分の人生に妥協している。

そんなこの団地の一室が、身を置くべき場所ではないことに、紘子は気がついていた。
それなのに、彼女はそこから離れるどころか、自ら蟻地獄に身を沈めてしまう。
上辺ばかり取り繕う両親に反発していた紘子には、オープンでざっくばらんなエリカのいる団地が、救済の地に感じられた。学校からもドロップアウトしてしまった孤立感から、いよいよその団地にしか居場所がなくなる。追い詰められた10代の少女の心理を、視野が狭い、馬鹿だ、と簡単に言うことはできないだろう。

美智子も、エリカも、抗うことを諦めた。自分の人生に妥協することしかできなかった。
エリカと紘子が出会ってしまったことは、あまりにも残酷な運命の悪意だったのかもしれないが、もっと冷酷なことを言えば、紘子の不幸な事件があろうとなかろうと、世代を渡って続く負の連鎖には影響はないとも考えられる。

この小説は、実際にあったある陰惨な事件から着想を得て書かれているが、あくまでフィクションとして読んでも良いと思う。
作者もまた、この小説を当事者達への免罪符とはしていない。

叫んだって誰も私の声なんて聞いてなかった!教師も、友達も、信じようとした男も、もちろんあの母親だって、誰も私の声なんて聞いていない!・・・願いなんてどうせ叶わん。そんなもん持つだけ痛い目を見るのは私たちや!

エリカ達の心の叫びのようなセリフは、実際に口にされたものとは限らない。だが、彼女達の姿には、作者が取材を通じて出会ったであろう様々な女性達の、必死に生きる姿が反映されているのではないかと感じた。

現実の事件を元にしたこのフィクションは、残酷な結末も描き、痛ましく救いのない現実を読者につきつける。
しかしまた、物語のラストで、エリカの娘が面と向かって母に見せる強い意志に、私たちは胸がすく思いがするのだ。
それは、声を上げられない女性達への、負けるな、強く生きろ、という作者の呼びかけのようにも感じる。

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