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『暇と退屈の倫理学』 國分功一郎

現代人の社会は豊かである。豊かな社会では人々は好きなことをする余裕=暇がある。
しかし、いざすべき「好きなこと」がわからず、人は文化産業によって用意、提供された楽しみを買って享受する。
つまり、「労働者の暇が搾取されている」。
なぜ搾取されるのかというと、人は暇の中で退屈し、そして、退屈することを恐れるからである。

なぜ人は暇の中で退屈するのか。
そもそも退屈とは一体何なのか。
暇の中でどう生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。
それがこの本のテーマだ。

人はいつから退屈するようになったのか。
著者はその根源を、人間の生活の定住化に見る。
生活が遊動生活から定住生活へと変わったことによる人間社会のありかたの変遷の考察はとても面白い。
いわく、人間の生活が遊動スタイルから定住スタイルに変わったことで、それまで生活場所の変化に適応するために使われていた探査能力を発揮できなくなった。そのため、代わりにその能力を働かせる対象が必要となり、結果、文明、芸術、政治経済の大きな発展につながった。
つまり、遊動生活から定住生活へと変わったことで暇が生まれ、「退屈をまぎらせる必要」という人間の恒久的な課題が生まれた、ということになる。
著者の論理は明快で、興味深く読み進められる。
また、ゴミ処理、トイレがいかに人間にとって困難な事項なのかなどの話もとても面白い。

暇つぶしの権威である「有閑階級」考や、労働と退屈との関係など、その他にも読み応えのある内容が続く。
「疎外と本来性」、「本来性なき疎外」についての著者の考え方は、思考停止に陥りがちな現代人にとって、耳を傾けるべきとても重要なものだ。
「全ての生物はそれぞれ異なった時間を生きている」という環世界の考え方でも、ハイデッガー批判を軸にしながら考えを掘り下げており、非常に面白くまた考えさせられる。

全編を通じて感じるのは著者の熱量である。
著名な思想家や学者の主義主張であっても、間違っていると思えばばっさりと斬り落とす。
一歩離れた冷静な目で「現在では違和感のある主張だが」などと論じるのではなく、まるで今現在論戦しているかのように「その考えは大間違いだ」と真っ向批判する、小気味良いエネルギーが(ところどころ言葉がややアグレッシブにすぎると見えなくもないが)まさに現役の思想家らしく、臨場感のある文章である。

大物が残した理論であろうと、読み継がれてきた本に書かれていることであろうと、間違いであると感じたらその思考を煮詰めてみることは、新しい思考、より発展した思考につながる。
もちろん過去の大物や名著についてだけでなく、現在の気鋭の論者、書籍についても同じである。
著者の論に関しても、読者が「いやそれは違うのではないか」と考えるのもまた、新しい思考への有意義なプロセスとなるだろう。

自分も著者と共に思考を巡らす思想家のつもりで脳みそを絞りながら読める、重量のある一冊だ。

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