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『生は彼方に』 ミラン・クンデラ

この小説はミラン・クンデラがまだチェコにいた1960年代末に書かれた。しかし、自由化運動に加わっていた著者は自国では弾圧の対象になったため、小説はフランスの出版社から、フランス語版で出版されることになる。
その後フランスに亡命した著者が、著作のフランス語訳の全面的な見直し作業を行い、そうした見直しを経て1991年に「新訳」(および「決定版」)として出版されたもの(の日本語訳)が本書である。

本書は著者が自身渦中で経験したチェコの混乱期を描いた小説であり、また、小説(小説技法)についての小説であり、詩と詩人についての本でもある。そして何より、ある青年とその母親の生き様を観察した人間小説である。

神の視点によって「筆者」が観察し、物語るのは、ヤロミルというチェコの青年だ。
ヤロミルの母親は、夫からの愛を一向に得られない孤独への慰めを息子の存在に見出し、全ての情熱を息子に向けるようになる。

夫が与えてくれるのは不安にみちた快楽だが、息子は幸福にあふれた静けさを与えてくれたことを、彼女がけっして忘れられなかったのかもしれない。・・・まことに、息子の体こそ彼女の家庭で、楽園で、王国だった・・・・・・

そんなヤロミルは幼少期から「詩人」になる。
韻を踏んだ文章(「おじいさんは意地悪だ、ぼくの菓子パンとっちゃった」)を話すと大人達が歓喜するのに気付いたのだ。

最初の彼が自分を理解してもらうために言葉を用いたとすれば、今や他人の同意や感嘆や笑いを惹き起こすために喋るようになったのだ。

成長したヤロミルは、一人の画家に出会い、彼の元へ通うようになる。
画家に教えられたミロやダリの絵、そしてランボーやエリュアールの詩から刺激を受けるヤロミル。
思春期を迎えた彼は、女中への欲望を詩の形で表現したことから、詩を書くという活動に再び没頭していく。
一方で母親は、言葉巧みで情熱的な画家との恋愛に溺れるのだが、アバンチュールは長続きせず、すぐに終わりを迎える。

情事は終わり、夫を亡くし、ますます心の拠り所として息子への結びつきを強めるようになった母親への抵抗から、ヤロミルは、マルクス主義者のサークルに参加したり、女性との性的な関係を成就させることで子供の殻を破ろうともがく。

重要なのは、彼が彼らと絆を持ったということだ。・・・彼がただ母親の子あるいは教室の生徒だけではなくなり、自分が全面的に自分自身になる人間たちの集まりをみつけた。そして、人が全面的に自分自身になるのは、他人たちと交り合うときからでしかないと思った。

しかしそんなヤロミルに、母はますます執着するばかり。

情婦は傷つけるが母親は慰め、情婦は無数に存在しうるが母親はひとりだけなのだと思った。わたしは彼のために闘わねばならない、闘ってやらねばならないんだと彼女は繰り返し思い、そのとき以来というもの、油断せず、思いやりのある牝虎のように彼のまわりをうろつき出すようになった。

どうにも母親から逃れられず、母の支配下に置かれ続けるヤロミルに対する「筆者」の目線は冷ややかだ。

見たまえ。彼はいま、第三部も冒頭において、わたしたちが、自分のほうに向かって歩いてくる見知らぬ女のまえで彼が赤くなるのを見たのと同じ道にいる。あのときから数年過ぎたのに、彼は相変わらず赤くなる。そして母親に使いにやらされた店のなかで、白いブラウスを着た娘の眼を見るのを恐れている。

この引用部分から分かるように、本書の語りは少し独特だ。「筆者」の存在が非常に読者に近く、書かれている小説について「筆者」が構成や技法のネタばらしをしながら解説したりもする。

本書の構成自体も面白く、本筋であるヤロミルの物語の幕間に挿入される第二部(ヤロミルの創作ということになっている、散文的な「一種の幻想物語」)と第六部(ヤロミルの物語を別の視点から覗いた「分館」と名付けられた箇所)も印象的だ。

またこの本は、詩人とは何者かを語った本でもあり、そこには様々な詩人が登場する。
そのほんの一部を挙げると、レールモントフ、ヴォルケル、フランチシェク・ハラス、ウラジミール・マヤコフスキー。ランボー、ヴォルテールあたりまでは分かっても、かなり詳しい人でないとピンと来ないような名前がぽんぽん上がってくるが、

ただ真の詩人だけが、詩人でなくなりたいという限りない欲望とはどんなものか、耳を聾する沈黙が支配するその鏡の家を去りたいという欲望がどんなものか、語ることができる。

抒情の真髄とは未経験の真髄のことだ。詩人は世間の事象をあまり知らないが、詩人からあふれる言葉は、水晶のように美しい最終的な組み合わせをかたちづくる。詩人は成熟した人間ではないけれども、しかしその詩句は予言のような響きを持っていて、その予言をまえにすると詩人自身さえも狼狽する。

といった、詩人という人種についての著者の論は、詩と詩人についての新鮮な見方を示して読者を引き込む。


さて、ヤロミルだが、その後、心から彼を愛してくれる娘と出会うものの、その独占欲の強さや視野の狭さといった未熟な人間性は変わることがなく、この愛も自ら潰してしまうことになる。
詰まるとこ似たもの同士のヤロミルと母親は、最後までお互いの心の穴を埋め合うのはお互いでしかないのである。

ああ、このふたりはなんとすばらしい見世物を提供してくれるのだろう。ふたりは向き合って互いに相手を押し合っている。彼女は彼をおむつのなかに押し戻そうとし、彼は彼女を墓のなかに押しやろうとしている。ああ、このふたりはなんとすばらしい見世物を提供してくれるのだろう・・・・・・

ヤロミルもかなりサディスティックな青年だが、「筆者」もなかなかのサディストである。
本書の解説でフランソワ・リカールはそれを「悪魔の視点」と書いているらしいが、言い得て妙といえよう。

人を食ったようなユーモアで性、不器用さ、不安、すれ違いを暴き切る冷徹な文章は、クンデラ好きにはたまらない。
母親の短期間の不倫や、ヤロミルの性愛の目覚めなどは、エロティックながらどこか滑稽さのあるフェティシズムがクンデラらしい。

「パロディーは人間の永遠の運命ではなかろうか」という本書の言葉通り、この小説は、人間というテーマの壮大なパロティーなのである。