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『フリーダム』 ジョナサン・フランゼン

かなり分厚い本だが、すいすい読める。
すいすい泳ぐように進む文章と共に、魅力的なストーリーのなせる技である。

時間を忘れて没頭してもう満腹なのに、まだこんなにたっぷりページが残っていて、これ以上何が出てくるの?と思いながらページをめくるとこれがまたまた面白く、またもや夢中で読み進んでしまう。
そんな、読書家は狂喜必至の、長大なコース料理のような一冊だ。

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主人公はパティとウォルターのバーグランド夫妻。
明るくほがらかなパティと真面目なウォルターは、優秀な娘と息子を持ち、理想的な家庭生活を築いていたはずだった。
しかし人生というのはどう転がるかわからないもので、理想的な一家はあれよという間に不穏な空気に覆われ始め、徐々に離散していく。
彼らに何が起きたのか。。。

人が内に抱える心理は、必ずしも表に出す言葉通り、態度通りのものではない。
世間知らずな体育会系女子はなぜ自堕落な不機嫌妻になったのか。
優しく真面目な苦学生が怒りに満ちた環境保護活動家になったのはなぜか。
そこにあるのは、幸せを求めて最善の選択をしようと精一杯の、生身の人間の心だった。

〜〜〜〜〜

「パティの世界へようこそ。過ちの世界へ」

パティの人生は失敗と逡巡に満ちている。
父は有名な弁護士、母は市議会議員。そんなエリート家庭に生まれたパティだが、家庭は欺瞞に満ち、その文化に馴染めないパティは得意なバスケットボールに打ち込み、体育会系世界にアイデンティティを見出す。
スノッブで情のない生家を嫌ったパティは、心優しいウォルターと結婚し、愛あふれる家庭を作ろうとするが、手放しの愛情を注いだ息子とはいつの間にかひどい確執を抱え、娘からは相手にされなくなる。
アルコールに頼り自ら堕ちていくパティの自己憐憫に満ちた独白は、胸がキリキリするほど痛々しい。

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パティの心の真ん中には空白があって、その空白を愛で埋めるべく全力を尽くすのが彼の運命なのだ。

ウォルターとパティとの出会いは大学時代。
ウォルターの親友であるリチャードに実はパティは惹かれていたのだが、優しく安心できるウォルターが結婚相手として選ばれたのだ。
横暴な父親を生涯許さなかったウォルターは、自分は父親のようにはなるまいと、とにかく礼儀正しく優しく、妻のことを労わり尊重する。
それでも満たされないパティ。ウォルターの心は疲れ、夫婦の間には冷たい風が吹き始める。。。

ここで登場する学生時代からのウォルターの親友、リチャード・カッツは、家族以外の唯一の重要人物だ。
パティは言う、「自分が惚れてしまったこの男は、この世でたった一人、自分とおなじくらいウォルターのことを大事に思い、守ってやりたいと思っている人間なのだ」と。

クールでニヒルなロックスター。愛に飢えた幼少期を背景に持ち、闇を抱えた人物だが、ウォルターを心から愛し尊敬している。
彼の存在はパティとウォルターの人生に打撃を与えるが、その打撃は凶だったのか吉だったのか、その見方も一様に定めることはできないのが、人生の複雑さである。

ついでに言うとこのリチャード、トーマス・ベルンハルトを読み、ブライト・アイズのライブに行くなど、なかなかの嗜好の持ち主だ。(ブライト・アイズについては、自身もミュージシャンのリチャードだけあって手放しで褒めちぎったりはしない。よく知らないし興味もないが、才能は本物だと認めるという程度というあたり、演出が細かくて面白い。)


物語に絡めて、共和党vsリベラル、大義と利潤の嫌な関係、環境問題など政治的な話題も掘り下げるといった次第で、内容はまさにてんこもり。
それらが、まったくとっちらからず、ぐいぐい読ませながらひとつにきちんとまとまっている。そしてラストも感動的な読ませどころを経て美しく着地させる作者の手腕が見事だ。


パティは、病床の父と向き合っているうちに、自分がどれほど父に似ているかに気づく。そして、親として難しい時期を迎えた時に、もっと自分の両親の顔を見ておくべきだった、そうすれば我が子のことももっとよく理解できたはずだ、ということにも。

またウォルターは、パティとの破局の後の心の拠り所を、それまで対立していた息子ジョーイに求める。

「じゃあわかってるんだな、その、私の——」
「うん」
「で、それでも誕生日のディナーに来てくれると?」
「うん。喜んで行くよ」
「そうか、うれしいよ、ジョーイ。そう言ってくれてうれしいよ。それだけじゃなく、いろいろな」
「うん」

男同士の会話はぎこちないが、そこにある愛情が沁みる。

苦悩に満ちた一家の物語だが、物語の最後には幸せが訪れる。
自分の心に対する素直さが、彼らを救ったのかもしれない。

アーヴィング的な人生の乱気流とアンタイラー的な人生のほろ苦さが同居する長大なストーリーは、大いに読み応えがあり、さながらロングランドラマの「THIS IS US」を観るようだった。