見出し画像

『そんな日の雨傘に』 ヴィルヘルム・ゲナツィーノ

「私は存在許可のない人生にはもうこれ以上耐えられません」

「自分は、自分の心の許可なくここにいる」という気分を抱えて生きている男の物語である本書のカギは、「存在許可のない人生」、「無許可人生」という人生観だ。

初めから終わりまで、なにやら面倒な感じの中年男が町を歩きながらつらつらと心中で呟く独白が繰り広げられる。
町や河畔をひたすら歩き、時々アパートに戻り、またはカフェで食事をし。知人の姿を見つけると対面せずに済むようにこそこそ避けたりもする。
そうしながら、目につく他人の姿から勝手な妄想をしたり、何かを思いついたり、子供時代を思い出したりして思考は切れ目なく続く。

内向的な中年男の独白。
ただそれだけなのに、とても面白い。なんとも言えぬ味わいなのである。

デパートの香水売り場で試供用の香水を次々と体にかけている男を見て「シュッ男」という絶妙なネーミングをしたり、心に湧いた憂鬱な感情にいきなり名前をつけてしまう(ゲルトルート・憂鬱)など、彼は想定不能なハイセンスの持ち主だ。
また、臨終の際にはベッドの左右に上半身ヌードの女性をはべらせたい、その女性は知り合いの誰が良いか、などという「臨終ファンタジー」を妄想するという脱力の低俗さも併せ持つ。
「胸は横から眺めたほうが、正面から眺めるよりよほど母性的な感じがする。」
・・・何を言っているのだこの人は(笑)
さらには、「沈黙時間表」なるものを考案し、「私がいつ喋りたいか、いつ喋りたくないかが、正確に書いてある」その表を知人すべてにおくろうかしらと考えたり。
「水曜と木曜は、午前中のみ〈連続的沈黙〉、午後は〈ゆるやかな沈黙〉・・・日曜は〈まったき沈黙〉」ってあなた。。。
おいおい、である。

語っている本人はいたって大真面目で、不遜と言えるほどの高尚ぶった言葉遣いがまた笑えるのだ。

しかし時に、はっとさせる洞察も現れる。
「円満な日常を作る努力」のしんどさを吐露しつつ分析する、幼少期から幼稚園入園とその後についての語りには、開眼させられた。
独特な心を持ち、物事の理解にじっくりと時間をかけるタイプの人が、年齢と共にいやおうなく世間で生きることを余儀なくされていく、自分が組み込まれている世界について理解ができないままに。
「人生の面妖さ」という言葉から、その戸惑いと切なさが伝わると同時に、「存在許可のない人生」という言葉の意味が胸に迫る。
草原を歩くのは恍惚だ、草を理解する必要がないから、というその言葉が心に響いた。

******

そんなこんな、おバカだったり何様だったりたまには深淵だったりするあれこれをひたすら一人語りする彼の魅力であり救いは、その根明さだ。
しかも彼はそれなりに友人もいるし女性にもモテるし、仕事運も良かったりする。
心の中は常に鬱々として右往左往しているわりに、実は結構ラッキーな人なのである。
それらのために、不思議と読んで心が軽く幸せになってくる。

カバーに載っている作者の写真の、気難しそうながら愛嬌のある丸顔を見ると、文章にあまりにしっくりくる相貌なので、読む文章にも彼が喋っている想像の声が被ってきて、つい笑顔になってしまう。

「教養によるなら私は偉い人であってもおかしくなく、職業によるなら、そうではない。ほんとうに偉いのは、個人の知識と人生での地位とを両方融けあわせることができる人だけだ。私のごとき、学しかないアウトサイダーは、つまるところ現代の乞食であって、どこぞの隅にいろとすら誰にも言ってもらえない人間である。」

とあるが、学しかないアウトサイダーとは作者自身のことだろうか。数多く小説を書いていながら長年注目されなかったという作者の苦労が、語り手の苦労とかぶってうかがわれる。

******

タイトルの「そんな日の雨傘」は、本の中盤ほどに出てくる。
パーティーの席で酔いに任せて、「回想術研究所」なるものを主宰しているという出まかせを言ってしまうのだが、それに興味を持った女性から、客はどういう人なのかと聞かれてとっさに答える場面だ。

「私どもの所にいらっしゃるのは、と私はためらい気味に、かつ物慣れたふうに答える、自分の人生が、長い長い雨の一日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられなくなった人たちですね。」

この「回想術研究所」がこの後で面白おかしい展開になっていくのも、読んでのお楽しみである。

何も上手くいかないように感じて孤独感でつぶれそうになった時は、この本を開いてみてほしい。
しょぼくても大丈夫。あなたは一人じゃない。

この記事が参加している募集