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『雌犬』 ピラール・キンタナ

怖い小説だ。
コロンビアのワイルドな雨風と、闇深い女性の心が、怖い。

主人公ダマリスは、海辺の断崖の上に住んでいる、もうすぐ40歳になる女性。
村に出るには、急な階段を降りて入江を渡らなければならず、住んでいる小屋も古く不便な生活だ。
ダマリスと夫には子供がなく、不妊は夫婦仲も冷え切らせている。

淡々と感情を抑えた語りが、彼女の半生を語り、波乱に満ちた少女時代から、夫婦で崖の上の管理人小屋に住み、ある別荘の管理をしている現在に至るまでの道が浮かび上がる。それは笑顔よりも泣き声、幸よりも不幸が圧倒的に多い半生だ。

そんなダマリスがある時、雌の子犬を知人から譲り受ける。
異常なほどに雌犬を溺愛するダマリス。その過剰な愛情には、夫へのあてつけや子供を持てない不満のはけ口も感じられる。
しかしダマリスの雌犬への感情は、雌犬が何度も家からの逃亡を繰り返すうちに、奇妙にねじれて行く。溺愛が徐々に無関心、憎悪に変わっていくのだ。
夫が雌犬に近づくことさえ許さないほどだったのが、結局いつの間にか犬嫌いの夫の方が雌犬の世話をするようになっているほど。
さらに雌犬がどこかで妊娠してきたことが判明した時のダマリスの衝撃は凄まじい。

ダマリスの心は悲しみに覆われ、ベッドから起き上がるのも、食事の用意をするのも、食物を咀嚼するのも、何もかもひどく手間がかかるようになった。人生は入江のようなもので、自分にはたまたま、歩いて渡る運命が用意されていたのだと感じた。足が泥に埋まり、腰まで水につかって、ひとり、完全にひとりぼっちで、子供を産まない体、物を壊すしか能のない体を前に進める運命が。

ダマリスの雌犬に対する愛憎が横の糸だとすれば、縦の糸は人生への悔恨か。彼女の心が動揺し、乱れるほどに、横の糸もよじれていく。その様が淡々と書かれていくのが恐ろしい。

この小説で印象深いのは、随所に登場する荒々しい自然の姿だ。
コロンビアの海岸の荒れた気候は、人々の生活に密接し、その心理にまで影響を及ぼす。
雨のにおい、砕ける波の音、濡れた衣服の不快感が、不穏感を更に掻き立てる。

海はまだ、どこまでも続くプールのように凪いでいたが、ダマリスは騙されなかった。あれは何人もの人々を飲み込み吐き出してきた、邪悪なけだものなのだ。

暗く深く無慈悲な海は、ダマリスの心の中のようだ。

圧倒的な自然の力と、女性の心。キンタナは端正な文章で、美しくも恐ろしい神秘を書き起こす。短くシンプルだが、強烈な凄みを持つ作品である。

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