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『生きる哲学』 若松英輔

生きるとは、自分の中にすでにあって、見失っている言葉と出会うための道程だとも言えるのかもしれない。

その言葉は、必ずしも言語の姿をしているとは限らない、と著者は書く。
例えば朝日や雨や川の流れを私たちが見たり聞いたりすることで美しさ、充実、畏敬の念などを感じる時、それは万物が語る言葉である。
また絵画や彫刻や音楽など、人間が表現するものの中にも言葉がある。
そのような、言語の姿にとらわれない「言葉」を、著者は本書の中でコトバと書く。

コトバがあり、そしてまた哲学がある。
重要なのは、狭義の学問領域、静止した剥製のような哲学ではなく、常に生きている哲学であると著者は言う。

誰もが簡単に用いることができる剥製のような概念は人生の困難にあるときに何の役にも立たない。

真に哲学者と呼ばれるべき人がいるなら、その人物は単に、学校で哲学を勉強した人でもなければ、哲学理論を展開する人でもない。むしろ、万人の中に「哲学」が潜んでいることを想い出させてくれる人物でなければならない。迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光は、すべての人に、すでに内在していることを教えてくれる人でなくてはならない。

本書は、そんな真の哲学者たちのコトバを集めた一冊だ。
須賀敦子、堀辰雄、孔子、リルケ。
原爆の悲惨を、自らも衰弱と飢餓の中にありながら書き記した原民喜。
色の中に哲学を見出した志村ふくみ。
哲学者としてのブッダ。
彼らが人生を通して抱き、表現の礎とした哲学に光を当て、丹念にひもといていく。

哲学とは、口にすることであるより、迷いながらも歩くことだった。

第一章 歩く 須賀敦子の道

詩人とは、単に詩を書く者の謂いではない。むしろ、詩によって生かされている者への呼称である。

第三章 祈る 原民喜の心願 

人を真に驚かす言葉、あるいは人を真に救う言葉は、いつもその人の本人の魂において生まれる。先哲の、あるいは詩人、偉人と呼ばれる人の言葉は、その人が自らの胸に潜んでいるコトバに出会うまでの道しるべにすぎない。

第八章 感じる 神谷美恵子の静かな意思

「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」

第十一章 伝える フランクルが問う人生の意味

「読む」とは単に学習することではない。それは字義通りの意味で生きることにほかならない。幼い魂にとってはいっそう「読む」ことのもつ意味は大きい。彼らは、そこで自分以外の生があることを身をもって知ることになる。

第十三章 読む 皇后と愛しみが架ける橋


著者の案内で、私たちは哲学者たちが紡ぎ出したコトバに手が届きそうなところまで肉薄する。それはあるいは切ない愛の告白であり、激しい慟哭であり、そしてまた、自分は人々に伝えることを求められている、という運命的な使命感である。
読みながらそれらを痛いほど感じる瞬間、私たちはまさに、彼らの残したコトバを生きる思いがするのだ。
じっくりと何度も読み、そうやって読んだ文章に自分の心が呼応することで、自分にとっての真のコトバが姿を表す。そんなふうに読みたい本だ。

「書く」とは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。「書く」ことに困難を感じる人は、この本の中で引用されている先人のコトバを書き写すだけでもよい。もし、数行の言葉を本当に引き写したなら、その人は、意識しないうちに文章を書き始めているだろう。そして、こんなコトバが自分に宿っていたのかと、自分で書いた文章に驚くに違いない。

終章 書く 井筒俊彦と「生きる哲学」

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