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ほんなごてい はがいかねぇ~ふたつの女児殺害事件~

和歌山地裁。
母はこの日、検察側の証人として出廷、愛娘の命を奪った男を前に、その思いの丈を訴えた。
娘は当時6歳。その娘を奪ったこの男は、本人も家族も良く知る人物だったことが、さらに家族を絶望の淵へと追いやった。

泣きたいときにも泣けず、毎日がつらく苦しい母を強く支えたのは、その母と同じ経験をした母親の存在だった。
検察からの出廷要請があっても、証言などできるだろうかと不安で仕方なかったが、
「何も話せなくても、洪水のように話して倒れても、母親としてありのまま伝えればいい、きっと娘がそばで見守ってくれているよ」
そう励ましてくれたのも、その母親だった。

和歌山と福岡。遠く離れて、知りあうことなどないはずだった二人の母親。その母親を固く結びつけたのは、悲しくも絶対に許せない二つの事件だった。

和歌山の事件

平成9年11月、和歌山県粉河町(現・紀の川市粉河)の団地は不穏な空気に包まれていた。
この団地で暮らす小学1年の女児が、28日の午後から行方不明となっていたのだ。事故の可能性もあり、地元住民や警察らが総出で女児の行方を捜していたが、女児の行方は一昼夜たっても分からないままだった。

女児はランドセルを背負ったままいなくなっていたが、同級生らと団地まで帰ってきていたことは確認されていた。
自宅に帰ったものの、家人が誰もいなかったことから女児は同じ団地の友達宅へ行っていたのだ。ところがその友人家族が出かけることになり、以降の足取りが分からなくなっていた。

警察犬も投入されたが、降り続く雨が臭いを消していて捜査は難航、地域住民らは女児の心配をするとともに、事故とも事件ともわからないまま不安な日々を過ごしていた。

しかし、事態は最悪の結末を迎える。
女児を連れ去ったとして、同じ町内の男が逮捕されたのだ。男は女児をすでに殺害した、とも供述していて、女児の帰りをひたすらに祈り続けた家族は奈落の底へと突き落とされてしまった。
しかもこの男、女児が暮らす団地の住人だったのだ。

階下の男

殺害されていたのは、粉河町の小学1年生、大石資恵(ともえ)ちゃん(当時6歳)。逮捕されたのは資恵ちゃんと同じ団地の1階下に住み、自治会副会長を務めるトラック運転手・山本秀樹(当時/41歳)。
山本と資恵ちゃんは顔見知りで、資恵ちゃんの行方が分からなくなった後も資恵ちゃんの捜索を率先して行っていた。
自治会の副会長を務めていた山本は、捜索で使うビラの資恵ちゃんの写真が不鮮明なことから両親に別の写真を持ってくるようアドバイスしたり、団地の住民集会でも「資恵ちゃんの両親を支えてほしい」などと何食わぬ顔で挨拶していた。
29日の捜索終了後も、「資恵ちゃんはまだ見つからない、大変なことになりましたが明日も頑張ってください」などと話していた。

ところが警察の調べで、資恵ちゃんがいなくなった当日、団地内で山本と資恵ちゃんが一緒にいたという目撃情報が上がっていた。
くわえて、住民の間からも「捜索に参加していた山本さんの様子が少し変だった」という話も出ていたという。
山本は元来、無口で自分から話すようなタイプではなかった。にもかかわらず、資恵ちゃんが行方不明になって以降、率先して捜索活動に加わり、資恵ちゃんの名を大声で呼ぶなど、どこか張り切っているように見えていた。

29日の捜索終了後、警察は山本に任意で事情を聴いた。山本は資恵ちゃんとその日会って話をしたことは認めたが、その後アリバイを聞かれると途端にしどろもどろとなったため、家の中を見せるよう求めた。
すると山本は突然、机に頭をぶつけるなど異様な行動に出たため、警察では山本の関与を疑い翌30日に家宅捜索に踏み切った。
そして、山本の自宅から資恵ちゃんの傘やノートを発見、さらに捜索したところ、台所の冷蔵庫の中から資恵ちゃんの変わり果てた遺体を発見したのだ。

山本は、28日の夕方2号棟の階段に座っていた資恵ちゃんに
「そこは寒いやろ、僕の部屋に来んか」
と声をかけ、自宅に連れ込んだと供述、そこでわいせつな行為に及ぼうとしたところ資恵ちゃんに泣かれたため、顔を知られていてマズいと考えて首を絞めたとも話した。

資恵ちゃんの死因は、首を絞められたことによる窒息死だった。

シングル・ファーザー

山本はどういう男だったのか。
詳しい生い立ちはわからないが、この団地には5年ほど前に入居したという。職業は転々としていたというが、事件当時はトラックの運転手だった。

家族もいた。しかしこの団地に入居してすぐ、妻は病気で他界している。その後は、息子と二人でこの団地で暮らしていた。
一時期、同じく子供のいる女性と同居していた時期もあったというが、事件のあった年の夏ころ、女性は出ていった(のちの裁判でこの女性とは正式に結婚していたことが述べられている)。

その後、一緒に暮らしていた息子は事件の2週間前に施設に預けたといい、事件当時は団地には一人で暮らしていた。

まだ幼い息子との同居生活は、仕事を持つ山本にとってはかなり大変だったようだ。しかし、山本は一人でできないことは近所の人らを頼り、仕事が遅くなる時は息子の食事を頼むなど、決して抱え込んだりはしていなかった。
その息子は、資恵ちゃんと保育園が一緒だったこともあり、資恵ちゃんの母親が食事の世話をしたこともあったという。
自治会の行事にも息子を連れて積極的に参加しており、近所づきあいでも問題はなかった。

妻と死別し、息子を一生懸命に育てる山本が、しかも世話になった家の子供に手をかける…山本のそれまでを知る人々は憤りとともにやるせない思いも抱いていた。

幼女ビデオ

平成10年2月から始まった公判では、山本の知られざる一面が明らかにされた。
山本には、幼い女の子に対して欲情するという性癖があった。自宅からは幼い女の子を集めたビデオテープがあり、そのビデオに耽るうちに現実の女の子に対していたずらしたい、性的な行為に及びたいという欲求が抑えられなくなっていった。

最初から資恵ちゃんを狙っての犯行だとは断定されていないが、あの日偶然にしてを見かけ、声をかけたところ思わず資恵ちゃんが部屋についてきたことでその欲望を抑えきれなくなったようだ。

何の疑いも持たずに、仲良しの男の子のお父さんとコタツに入った資恵ちゃん。まさかそのお父さんが自分を襲うなど、夢にも思わなかったろう。
山本は資恵ちゃんに近づき、キスしようとした。そしてそれを拒絶され、さらには資恵ちゃんが大声で泣き始めたところで山本は我に返った。しかしもう、引き返せなかった。

検察は、資恵ちゃんを連れ込んだ際、わざわざ窓から階下の自転車置き場を見させ、資恵ちゃんの母親のミニバイクがないことを確認させており、計画的にいたずらに及ぼうとしたと主張、殺害の様態も、手で首を絞めた後さらにベルトで絞めてとどめを刺すなど悪質で残酷として、山本に対し懲役15年を求刑した。

弁護側は山本のそれまでの社会生活に問題がなかったことや、一人残されることになる息子のことなどから情状酌量を求めたが、平成10年6月30日、和歌山地裁の小川育央裁判長は「短絡的で身勝手極まりなく、犯行後も素知らぬ顔をして被害者の捜索活動に加わるなど悪質」と批難。
さらに、「もがき苦しむ被害者の殺害方法からは人の生命や尊厳に対する畏敬の念のかけらも見出せない」として、懲役13年を言い渡した。

法廷では、資恵ちゃんの母親も証言台に立った。そして、家族の苦しい思い、山本への怒りを切々と訴えた。
なんの落ち度もない娘を、よりにもよって親しくしていた隣人に殺害されるなど、どれほどの苦しみだろうか。
本来ならば法廷に立つことも難しいほど憔悴しきっていた母親が法廷に立つことを決意した背景には、遠く離れた福岡のある事件が関係していた。

福岡の事件

資恵ちゃんの事件が起きる3か月前。福岡県春日市の小学2年の女児が行方不明になる事件が起きた。
丸二日経っても何の情報も得られなかったことから、県警捜査一課と筑紫野署は「事件に巻き込まれた可能性が高い」として公開捜査に踏み切った。

いなくなったのは、春日市在住の古川麻衣ちゃん(当時8歳)。麻衣ちゃんは夏休みの登校日だった8月6日の午前7時半ころ、自宅を出て小学校に向かったのを目撃されていたが登校せず、行方が分からなくなった。
最後の目撃場所は、昇町親水公園の北側入り口付近だった。

この場所は通学路となっており、麻衣ちゃんはいつも通りの行動をしていたと思われた。自宅から小学校までは500m、普段は人通りもある通学路だったが、この日は雨が降っていたことから普段より人通りは少なかった。

ところが8日になって、麻衣ちゃんと同じ小学校の児童が、あの日の朝女の子が若い男に無理やり連れ去られそうになっていたところを目撃していたことが判明。
ただ、目撃した児童は麻衣ちゃんと面識がなかったことで麻衣ちゃんだと断定はできなかった。くわえて、その児童と一緒にいたほかの児童はそれを見ておらず、捜査は慎重に進められた。

春日市では、事件を受けて当時の白水清幸市長が、市外に連れ出された可能性もあるとして周辺の市町村に協力を要請。実はこのころ、近隣の大野城市では留守番をする女児宅を狙って、「トイレを貸してほしい」と言って上がり込もうとする不審な男が報告されており、それらとの関連も囁かれた。

麻衣ちゃんの帰りを心待ちにしていた家族だったが、8月10日、福岡県警捜査一課と筑紫野署が市内在住の無職の男が事件にかかわったとして未成年略取容疑で逮捕したとの報を受ける。
さらに、男の供述から、麻衣ちゃんを自宅で殺害して山中に捨てたことが判明、午前10時20分、福岡県那珂川町の山林で麻衣ちゃんとみられる遺体を発見した。

妻子持ちの男

未成年者略取、殺人、死体遺棄容疑で逮捕されたのは麻衣ちゃんの自宅近くに暮らす無職、瀬口健一(当時24歳)。
調べによると、瀬口は6日午前7時45分頃、通学途中だった麻衣ちゃんの腕を引っ張って自宅に連れ込み、直後に殺害して午後2時ころに那珂川町の九千部の山中に遺体を遺棄したと自供。
麻衣ちゃんの遺体はプラスチック製の大型ごみバケツに入れられ、林道から4m下のヒノキ林に、まるで投げ捨てられたような状態で発見された。

瀬口は、麻衣ちゃんを狙ったのではなくたまたま通りがかったのが麻衣ちゃんだったとし、誰でも良かったと話した。
瀬口の自宅アパートは麻衣ちゃんらの通学路である川沿いの公園のちょうど川向で、自宅からのルートによっては瀬口の自宅前の道路を通る子供もいたという。
あの朝、麻衣ちゃんと同じ小学校の児童が「女の子を男が引っ張るのを見た」と話していたのは、結果として間違いない情報だった。
警察は周辺捜査の中で瀬口の存在をつかんだことから慎重に捜査していたところ、10日の午前中、知人宅に多額の借金の申し込みに行ったことが判明。
逃走資金の工面と判断し、知人宅へ急行し任意同行を求め、その自白が取れたことと麻衣ちゃんの遺体が発見されたことで逮捕となった。

瀬口は最近まで仕事をしていたというが、勤務態度の悪さなどから解雇されていた。しかし、その後も元勤務先に金の無心をしていたといい、逮捕のきっかけとなった知人というのも、その元勤務先の専務だった。
そして、逃走資金の工面とみられていた借金の本当の理由は、なんと出産費用だった。
瀬口には、臨月を迎えた妻の存在があったのだ。

男のそれまで

瀬口の生い立ちについては明らかになってはいないが、以前から「ロリコン」を自称していたという。
知人らにロリコン雑誌を読んでいることを隠そうともせず、一方で「女を紹介してくれ」などと話していた。
妻が何歳かは不明だが、性的に特殊な傾向があったとみられる。

3人姉弟の末っ子として生まれた瀬口は、兄のつてで市内の塗装会社に勤務することになった。ところが元来夜遊びの癖があり、朝起きられない、休憩を3時間もとるなど勤務態度に問題があったことから社長に度々注意されていた。
この年の5月、妻と共に現場となったアパートに越してきたが、このアパートも会社が借り上げてくれていたという。
にもかかわらず、瀬口は仕事中に休憩ばかり取るといったクレームが相次ぎ、業を煮やした社長からもう来なくていい、と告げられてしまう。6月には事実上解雇となったが、頼み込んでアルバイトという形で同じ会社で月に数回仕事をさせてもらっていた。

瀬口には妻をも悩ませる悪癖があった。それは、シンナーの吸引である。そんな男が絶対に勤めてはいけないのが塗装会社であるが、案の定、仕事中に業務用のシンナーを吸ったり、こっそり家に持ち帰ったり、挙句の果てには深夜にシンナー仲間と会社に忍び込み、シンナーを吸うなどしていた。
逮捕された当初は、シンナーの影響はないとみていた警察だったが、その後の調べで犯行当日に瀬口と会った知人が、「シンナーを吸っていたように見えた」と話していたという。

また、近所の人らは瀬口のことをこう話していた。
「近所づきあいはなく、時折部屋からは夫婦げんかの声が聞こえていた。道路で子供が遊んでいるとこれでもかというほどクラクションを鳴らしたりして変わった人だと思っていた。」
一方で、知人の子供らには優しかったという。カブトムシやクワガタを捕まえると、子供らに見せて分けてやるなど、健全な意味での子供好きな男、という見方をしていた人もいた。

事件の二日前、妻が出産のために実家のある熊本へ帰省、一人になった瀬口は自宅で悶々としていたのだろうか。
部屋には「ペニスを増大させる」とうたった通販グッズが無造作に転がっていた。
そして、6日の朝を迎える。

家族と無事を祈る人々

「どんな姿になってるかわからん。行きたくない…!」
「今日、この手で麻衣を抱けるんですか…」

麻衣ちゃん発見の知らせを受けた両親は父親も自力で立っていられないほどの絶望の中にいた。
麻衣ちゃんが見つかった現場のある那珂川町へ急いだ両親は、すぐに麻衣ちゃんに会えると思っていたという。しかし、ようやく会えたのは5時間以上経過してからだった。

シートに隠された彼女は足のほうから見せて頂き、パンパンに張った皮膚は、死んでいることの証明でした。腹部まで来るとウジ虫がもう大変な数。動物や植物、生きているものは大好きだった彼女でしたが、蚊とか人を刺す虫は大嫌いだったのに、その虫たちに囲まれていました。
そしてそこでストップ。
顔が神戸の事件のようにないのだろうか。と思いきや、上半身は見事に白骨化しておりました。
目も鼻も口もないのに私には笑って見えました。
(民事裁判に提出された母の手記より 引用元:「天使の咲顔」来栖香織 著 文芸社)

抱いてやることも、その頬に触れてやることも髪をなでてやることも、両親には叶わなかった。

あの日、福岡県内は朝からしとしとと雨が降り続いていた。古川家では、いつものように家族全員で朝食を食べた。トーストとみそ汁と、野菜サラダ。
その日は登校日で、学校で行われる平和学習について麻衣ちゃんは母に訊ねたという。学校から帰ったら、ピアノのレッスンに行く予定もあった。
学校から帰るのが11時ころ、作り置かれた昼食を食べたらピアノに行って、夕方4時ころまではピアノの先生の所にいること。4時半に家に戻って、今日はどこにもいかずにお母さんの帰りを待ってるよ、麻衣ちゃんはそう話していた。

母親は水曜日だけ、歯科医院にてフルタイムの仕事を入れていた。この日もたまたま水曜で、いつものように夕方家に戻ると、「家にいるから」と言っていた麻衣ちゃんの姿が見当たらなかった。
食卓を見ると、お兄ちゃんたちの昼食は食べられていたものの、麻衣ちゃんの分は手つかずだった。

「今日、麻衣ちゃんどうしました?約束の時間になっても来ませんでした。帰り次第、お稽古にやらせてください」

ピアノの先生に確認すると、麻衣ちゃんはそもそもピアノのレッスンにも行っていないことが分かった。
胸騒ぎを抑えながら、次々と母親は思い当たる場所、友達の家に電話をする。
そして、麻衣ちゃんの友達の家に電話をした際、
「おばちゃん、今日麻衣ちゃんなんで学校休んだの?」
という信じられないことを聞かされる。

どういうこと?母親はすぐさま学校に電話を掛ける。そんなはずない、第一、この頃子供たちが犠牲になる事件が全国的に多いから、欠席する際の取り決めで家族からの連絡がない欠席の場合は学校が親に確認の電話を入れることになっている。そんな電話は、かかってきていない。
保健室かどこかでやすんでいるのでは?友達はたまたま麻衣と会わなかっただけ…

学校に問い合わせると、担任にはつながらなかったが、
「今日は11時に全員下校していて、今学校内に児童は一人もいませんよ」
という答えが返ってきた。

普通なら、家に帰らず友達の家にでも行っているのかもしれない、と考えるかもしれないが、麻衣ちゃんの母親は、麻衣ちゃんに限って絶対にそういうことはないという確信があったため、すぐさま派出所へ走った。そして、「事件です」と伝えた。

それからの5日間、家族は生きた心地がしなかった。ちゃんと食べているのか、雨に打たれていないだろうか、怖い思い寂しい思いをしているに違いない…
それは近隣住民も同じで、自治会はじめ近隣、学校関係者、PTAなどが総出で麻衣ちゃんの捜索に当たった。

麻衣ちゃんの遺体発見のニュースがもたらされると、担任教諭は泣き崩れ、校長は頭を抱えてうずくまり立ち上がれなかった。捜索に加わっていたPTAの保護者らからは嗚咽が漏れた。
団地で自治会長を務めていた男性は、「親の気持ちを考えれば、罪を憎んで人を憎まずなどという気持ちには到底なれない」と吐き捨てた。

麻衣ちゃんが団地に戻ってくると、集会室で待っていた住民らに対し、父親の叔父から説明があった。叔父は福岡市内の消防署員であり、職業柄もあってか遺族代表としてその後もマスコミや住民らに説明する役を任されていた。
団地では総出で麻衣ちゃんの家族を支えていた。食事の用意をし、寝込んでしまった母親を支えた。
そんな近隣に対し、遺族は心からの謝意を表していた。

麻衣ちゃんの葬儀には、3千人の参列があった。
11日の午後には、降りしきる雨の中麻衣ちゃんの遺体発見現場に小学校の教職員、PTA役員らの姿があった。
傘を置き、雨に打たれながら地面に膝をついて、麻衣ちゃんの冥福を祈る姿は10分に及んだ。担任教諭は肩を震わせ、皆が数珠を握りしめただただ、守れなかったことを麻衣ちゃんに詫びていた。

知人の機転

瀬口は殺人や死体遺棄などの罪で起訴された。
瀬口は登校中の麻衣ちゃんを見かけ、隙をついて腕をひっぱりそのまま自宅アパートへ連れ込んだ。麻衣ちゃんは、瀬口のアパートの数軒向こうの家の友人と待ち合わせていたという。
連れ込む際は恐怖から声をあげられなかった麻衣ちゃんだったが、室内に入った途端、大声をあげたという。
それに驚いた瀬口は、麻衣ちゃんを風呂場に押し込むと、水の張られたままの浴槽に頭をつけ、そのまま溺死させた。

その後、麻衣ちゃんの遺体を自宅に放置したまま、以前の勤務先の専務に「福岡の兄に会うので車を貸してほしい」と頼みに行き、その際現金4000円も借りていた。
帰宅する際に大型のゴミバケツを購入すると、麻衣ちゃんを車に積み那珂川町へと走った。
そして、林道からゴミバケツごと放り捨てたのだ。はずみで蓋がはずれたというが、瀬口はそのまま走り去った。

ところが林道を引き返している最中、道の端に停車していた車に接触、瀬口は逃走したがその後脱輪して動けなくなった。
警察からの連絡で車の所有者である専務が現場に駆け付けた。瀬口は運転席で呆然としていたといい、「なんでこんなとこにおるんか」と問う専務に対し、「車を飛ばしたくなったから」と言っていたという。

単なる事故として処理されたものの、専務は翌日車を引き揚げに行った際、荷台部分に血痕があるのを見逃さなかった。
瀬口にそれを問い質すと、「犬を轢いてしまって、かわいそうで埋めるためにいったん荷台に乗せた」と話した。
しかし専務はこの時点で麻衣ちゃんの行方不明事件との関連が頭にあったという。
たまたま、知人に警察官がいたことから相談したのち、警察へ通報した。

警察では不審者リストの中に瀬口がいたこともあり、また、自宅が麻衣ちゃんの通学路上にあることなどから慎重に動向を探っていたが、先述の通り、知人らに金を借りていることを知って逮捕に踏み切った。

瀬口は自分の車も所有していたが、なぜかこの時は車をわざわざ借りに行っていた。自分の車を使うと犯行がばれるとでも思ったのだろうか、結果としてそれは裏目に出たわけだが、実は瀬口は麻衣ちゃん殺害後にある行動に出ていた。
別の女児に対しても、拉致しようとしていたのだ。

幸いにもその女児に被害はなく、瀬口は逮捕となった。

無期懲役

公判では瀬口がシンナーの影響で事件のことを断片的にしか覚えていないと述べたことなどから、弁護側が精神鑑定を申請した。
シンナーを吸っていたのではないか、という話はあった。そしてその後、瀬口の自家用車からシンナーが発見されていた。
しかし、福岡地裁は精神鑑定について「必要ない」として却下した。

検察は、事件直後に警察官らが聞き込みで瀬口と接触しており、その際、瀬口は親戚の名前を語っていたと明かした。
いたずらしたいという劣情から、たまたま通りがかっただけの麻衣ちゃんを連れ込み騒がれたとしてすぐさま殺害に走っていること、その後も犯行を隠蔽するための工作をしたばかりでなく、同様の犯行を未遂とはいえ起こしていることを厳しく批難した。
そして、人も訪れない山の中にごみを捨てるかのように麻衣ちゃんの遺体を遺棄したことで、両親らは愛娘を抱きしめることすら叶わなかったと遺族の思いにも触れた。

第6回公判では、麻衣ちゃんの両親が証言台に立った。
「同じ年ごろの小学生を見ると娘出ないかと思う。今でも一日一回は涙が出て、子供の名前を呼ぶ。夕方には母親に一日の出来事を報告する姿が見える。」
と悲しみをこらえながら証言。量刑について聞かれると、「死刑です。無期懲役ならいつか出てくる可能性がある。それには耐えられない」と述べた。

第7回公判では、前回の両親の証言を聞いた感想を問われ、瀬口は
「肉声を聞いて本当にすまないと思った」
と話した。
毎日写経をし、お祈りもささげていると話す瀬口だったが、この時点でも遺族にお詫びの手紙は出していなかった。それについては、「自分のような者が手紙を書いても余計嫌な思いをさせると思った」とした。

検察は、通学路で起きた事件であり、社会に与えた影響も大きく、遺体をゴミ箱に入れて捨てるなど情状酌量の余地はないとして無期懲役を求刑。
弁護側は有期刑が相当と主張した。

麻衣ちゃんの両親は、判決を前に瀬口に対し5000万円の損害賠償請求訴訟を福岡地裁に起こした。代理人によれば、瀬口野の責任をできる限り追求したいという両親の思いを汲み、一周忌が過ぎてから提訴した、ということだった。
当初は全面的に争うとしていた瀬口だったが、それより先に刑事事件についての判決が下った。

求刑通りの無期懲役。
瀬口が法廷を後にするそ時だった。傍聴席にいた麻衣ちゃんの父が、瀬口にとびかかろうとした。家族らが慌てて制止したものの、のちに報道陣に対し、
「求刑通りの判決には感謝している。しかし死刑を望む気持ちは今も変わらない。娘の命を奪った人間が今も生きているのは納得できない」
と語った。

弁護人らは言葉をなくし、閉廷後の取材にも「ノーコメント」を貫いた。

しかし瀬口は「殺意はなかった」として控訴。徹底的に争うかに思われたが、一審判決後の4月、民事裁判において瀬口は突然「認諾」を行う。
これは原告の請求をすべて認める、というもので、確定判決と同様の効力を持つ。
民事裁判はあっけなく終結した。

平成11年7月5日、福岡高裁は「確定的な殺意があった」とし控訴を棄却、その後瀬口はいったん上告したものの、平成12年4月20日、上告を取り下げた。
無期懲役はここに確定した。

課題

麻衣ちゃんが通っていた小学校は、近隣の小学校から見ても子供たちの防犯、通学路の安全対策には気を使っていたという。
麻衣ちゃんが通った通学路は、実は以前は車通りを通るコースだったという。しかし、人身事故が起きたことから、交通量の多いコースではなく、遊歩道や公園があるコースに変更されていたのだ。それが、たまたま瀬口が暮らすアパートの前の道路だった。
普段は散歩の人らもいたはずだったが、あの日は雨が降っていたことでいつもより人の目がなかったのだ。

PTAや学校、地域住民らも巡回などで危険な場所や死角がないかをしていた。不審者の情報があるたびに、集団下校やパトロールなどを検討し、防犯には積極的に動く地域だった。
しかもこの年は、奈良の月ケ瀬、神戸で、隣人による残忍な事件が起きていたこともあり、行政レベルでも警戒していたところだった。

しかし、事件は起きてしまった。

もうひとつ、この事件に直接は関係ないが、事件後学校の一つのミスが明らかになった。
あの日、母親が仕事から帰宅して初めて、麻衣ちゃんがその日学校に行っていないことを知った。
実は、担任が麻衣ちゃんが欠席する連絡を「受け取ったと誤解」していたのだ。麻衣ちゃんの小学校は全児童1000人以上、登校日のあの日、全体での欠席者は170人と多かった。本来ならば、事前の届や保護者からの電話連絡がない場合の欠席は、職員が児童宅を訪ね確認することになっていた。
しかし、実際には友達からの言伝などもあったため、担任は麻衣ちゃんの欠席も連絡を受けていたと思い込んでしまったのだ。

もちろん、麻衣ちゃんは瀬口の自宅に連れ込まれた直後に殺害されており、たとえ学校側がすぐに気付いて家庭に連絡したとしても事件は防げていなかっただろう。
しかし、もしもすぐに連絡があり、両親が警察に通報していたら、すぐさま緊急配備や捜索が出来ていたわけで、瀬口は麻衣ちゃんを山の中に捨てるタイミングを逸した可能性が高い。
となれば、麻衣ちゃんが何日もひとりぼっちでいることは、なかっただろうと思われる。

遺族の苦しみと、強さ

判決が確定する直前の平成12年4月。一冊の本が出版された。
「天使の咲顔(えがお)」と題された、かわいらしい装丁のその本は、麻衣ちゃんの母の姉が出版したものだった。

ある日突然に事件の被害者遺族となった妹家族のことをそばで支えた日々をまとめ、加害者が擁護され被害者はあることないこと言われてしまう現状について、「日本には被害者の人権を護る法律は何一つない」として、犯罪被害者保護へ体制つくりを訴えた。

麻衣ちゃんの両親らの承諾も得、自費出版する予定だったというが、出版社側から世に出すのが良い、と言われたという。

麻衣ちゃんにはおじいちゃんをはじめ、たくさんの離れて暮らす家族がいた。会える日を楽しみに、麻衣ちゃんの成長を楽しみにしていた祖父の苦悩、著者である麻衣ちゃんのおばも、日常が一変した。

麻衣ちゃんのそばにいた両親と兄らはさらに深い悲しみと絶望の日々だったという。
父親はしっかりせねばという思いと、麻衣ちゃんを失った悲しみに押しつぶされそうになっていた。それは傍から見ていても痛いほどにわかった。
そんな両親に、世間の心無いうわさ、デマが届くことがあった。

あの日、普段より少し早め(30分前)に家を出たということをやたらと疑問視するマスコミがあったという。実際、麻衣ちゃんの父親が記者会見に応じた際にも、それを質問した記者がいた。
単にその日、兄らがキャンプに出掛ける日だったことでたまたま早く家を出ただけだった。
ところが、ある時麻衣ちゃんが瀬口と以前から知り合いだった、遊んでいたなどという話が飛び交った。

おそらく、家を早く出たこと、瀬口の家に連れ込まれたときに声をあげられなかったことなどが、ありもしない妄想を作り上げたのだろう。

麻衣ちゃんの名誉をも傷つけるこのようなうわさやデマに耐えかねた両親は、ある日、麻衣ちゃんの兄らを呼んでこう話した。
「四人で一緒に麻衣のところに行こうか。」
そこで次男が、
「行ったら帰ってこれる?」
と聞いたという。おそらく、中学生になっていた長男はその両親の言葉の意味をわかっていた。だからなにもいえなかったのだろう。加えて、両親の深い悲しみをお兄ちゃんは分かっていたのだと思う。
母親が、「(帰ってくるのは)無理よ」というと、次男は即座にこう返答した。

「じゃ、二人で行って。僕たちはまだ生きたいもんね、ねー兄ちゃん!」

両親はハッとしたという。次男は無邪気に言ったのかもしれないが、麻衣ちゃんのところへ行くという意味をしっかり確認し、帰ってこれないと聞くや、「まだ生きたい」という思いをしっかり伝えたのだ。お兄ちゃんの分も、である。
両親も救われたのではないだろうか、親として、決して麻衣ちゃんが喜ばない選択をしようとする寸前だった。それを、幼い兄弟が救ってくれたのだ。

母は手記の中で、瀬口の息子にも言及した。なぜおまえの子供が生まれ来て、自分の娘は殺害されたのか。心がかきむしられる思いだったろうが、母は「今後シンナーを吸ったり、人を殺したりすることがあれば麻衣の命は浮かばれない。命を賭けてあなたに生きる道を教えたのだ。息子さんが重ねる年のたびに、私たちが麻衣の命日を迎えていることを忘れないでください」と瀬口に訴えた。

麻衣ちゃんが大好きだった祖父母の思いも切ない。
祖父は、一番早く麻衣に会えるのは自分だなぁ、とかみしめるように話し、瀬口に対しては「ほんなごてい、はがいかねぇ…」と悔しさをにじませた。

著者である麻衣ちゃんのおばは、このように一家心中まで考えた妹家族に対し、生きていてくれてありがとうと結んだ。
また、加害者ばかり擁護され、凶悪な犯罪が後を絶たないことに対しては、「あなたは是々で人を殺したのですから、二日後に死刑です」くらいにならなければ凶悪犯罪はなくならないのではないかとまで著書の中で書いている。本当に、極端だけれどもここまでしなければだめなのではないだろうかと私も思う。

人の命を奪ったら、自らの命で償うしかできない。

「ほんなごてい、はがいかねぇ」

祖父のこの言葉がすべてである、それでも、人を、何の罪もない子供を殺しても、殺した人間は守られ生きることを許される。奪われた人々は、その恨みをぶつけることもできず仇も取れず、悲しみを乗り越えて生きていかなければならない。

麻衣ちゃんの母は、のちに和歌山で起きた資恵ちゃんの事件を聞き、資恵ちゃんの家族に花を贈った。それをきっかけに、古川家と大石家の交流が始まり、特に母親同士はお互いの誰にも言えない思いを共有し、支えあった。
資恵ちゃんの母が勇気を振り絞ることができたのは、麻衣ちゃんの母の支えがあったからだった。

悲しいことだ。麻衣ちゃんと資恵ちゃんの命が奪われることがなければ出会うこともなかった。しかし、もしも避けて通れぬことだったのだとしたら、麻衣ちゃんの死は、遺族の悲しみは、資恵ちゃんの死で打ちひしがれる人の支えとなった。無意味ではなかった。

麻衣ちゃんは1年生の時、クラスで来年のカレンダーを作り、5月の担当となった。
「きょう ちっちゃなたねを うえました
そして みずやりをしました
きれいに さかせてね」
麻衣ちゃん、資恵ちゃんの笑顔は、ご両親やお兄ちゃんたち、おばさん、おじいちゃんおばあちゃん、クラスの友達、先生、近所の人々、多くの人の心で今もかわいらしい笑顔を咲かせているだろう。

これからもずっと。

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参考文献

朝日新聞社平成9年8月8日西部朝刊、平成10年11月25日西部夕刊
読売新聞社平成9年8月8日、11日、12日、13日、14日西部朝刊、11日西部夕刊、東京夕刊、平成10年2月17日、12月9日西部朝刊、平成10年6月1日、9月1日西部夕刊、平成11年4月12日、9月8日西部夕刊、平成11年5月13日、西部朝刊、平成12年4月19日大阪夕刊、4月20日西部朝刊
毎日新聞社平成9年8月11日中部夕刊、大阪夕刊、東京夕刊、12日西部夕刊、14日、16日西部朝刊、平成10年6月24日、8月31日、11月25日西部夕刊、平成11年9月22日西部朝刊
西日本新聞社平成9年8月8日、9日、11日、12日夕刊、12日、13日朝刊、平成10年10月22日朝刊
中日新聞社平成9年8月11日夕刊
日刊スポーツ新聞社平成9年8月12日
産経新聞社平成9年9月1日東京夕刊
NHKニュース平成10年11月25日

天使の咲顔 来栖 香織 著 文芸社

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