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[読書の記録]柴崎祐二編著『シティポップとは何か』(2022.11.30読了)

 皆さんは、シティポップという言葉にどのようなイメージを持つだろうか。あるいは、シティポップはどのような音楽を指すと考えるだろうか。
2022年4月に出版され大きな話題を集めた本書は、「シティポップ」という言葉の受容史を主題とした大部の研究書である。

 シティポップは狭義には、1980年代の日本で流行した一群のポピュラーミュージック、特にAORやR&B、スムースジャズ等、同時代の米国の音楽的教養を取り入れて制作された楽曲と音楽家の集合を指すとする認識が一般に共有されている。
 一方で本書のメインの著者である柴崎祐二は、シティポップが特定の特徴を共有したコンテンツを指す言葉ではなく、レコード会社や雑誌等の音楽メディアが明確なマーケティング上の狙いのもとで、恣意的に付与していった記号であったことを指摘する。
 つまり、同時代にシティポップと呼ばれていた音楽こそがシティポップなのであって、それ以上でもそれ以下でもない、という定義である。これに従うと、「オリジナルシティポップ」と目されることも多いティン・パン・アレーやシュガーベイブはシティポップではないということになる。なぜなら、当時それらのバンドはシティポップとは呼ばれておらず、むしろ世紀の変わり目頃からディスクガイドのアーカイブ化が進んでいった中で遡及的にシティポップと捉えられるようになった音楽だからだ。逆に時は下って2010年代以降に登場したSuchmosや一十三十一、SIRUPといった「ネオシティポップ」として括られるアーティストたちは、そのラベルゆえ、正統なシティポップであることになる。

 しかしながら、しばしばSNS上でも論争になる通り、何がシティポップで何がシティポップでないのかという境界問題は、未だに一部音楽ファンの間ではお気に入りの酒飲み話となっており、決定的な解は出ていない。まごうことなきシティポップの名盤『A LONG VACATION』(1981)におけるキーパーソネルであった大瀧詠一、松本隆を擁し、80年代の都市型ポップミュージックの出現を準備したバンド、はっぴいえんどの貢献を重視し、はっぴいえんどに連なる人脈において制作された音源だけをシティポップと見るむきもあれば(本書ではこのような見方は「はっぴいえんど史観」として批判的に紹介されている)、70年代後半以降に東京~湘南に至る一帯から現れたミュージシャンと音楽を広くシティポップととらえ、岡村靖幸や渋谷系、さらにはサザンオールスターズまでシティポップの範疇に含めるという鷹揚な態度も存在する。
 柴崎による、マーケティング上のコピーという定義は、かような状況を受け、いったんシティポップの外延に係る問いを括弧の中に入れる戦術であるともとらえられる。
 広告上の記号としてであれ、シティポップという呼称を与えられた楽曲には概ね共通して、特定の「ムード」や「イメージ」を醸し、地方在住者にとっては都会での生活に対する、あるいは既に東京・横浜に住んでいる者にとってはリゾート地でのバカンスに対する憧憬を惹起する機能が備わっていたことは、柴崎も一定程度認めている。国際都市となった東京で、急速に飽和状態に向かいつつあった消費文化と連動するように、様々なシティポップ楽曲が企業・商品のイメージソング/CMソングとして採用された事実はその証左である。
 これと関連し、柴崎は宮台真司の用語を引いて、シティポップが「シーンメイキング」に適した音楽であると述べる(参考『サブカルチャー神話解体』(宮台真司編著 筑摩書房)。ただし、歌詞を含むどのような音楽的要素に都会的な「ムード」「イメージ」を感じ取るかには、年齢や生まれ育った場所、聞いてきた音楽などによって差異が生じやすいため、結果としてシティポップには共通した音像上の特徴が見だしにくいのだろう。

 
 あらためてシティポップに冠された「シティ」という言葉の来歴を考えると、それが常に実在しない都市の虚像の表象であったことに思い至る。
 松本隆ははっぴいえんどの1971年のアルバム『風街ろまん』にて、日本語詞の大衆歌曲史における到達点ともいえるレベルの修辞を披露しつつ、「存在しない街を幻視する」というコンセプトを提示した。それは例えば、同アルバムの3番目に収録された曲『風をあつめて』において反復される、

”路面電車が海を渡るのが 見えた”

"緋色の帆を掲げた都市が碇泊しているのが見えた"

”摩天楼の衣擦れが舗道をひたすのを見た”

風をあつめて

といった、もはやダリやシャガールの絵画さえ想起させるほどにシュールなモチーフに顕著である。『風街ろまん』そのものは狭義のシティポップの出現におよそ10年先立つ作品だが、風街という概念がシティポップにおける「シティ」の直系の先祖にあたるであろうことは、80年代のシティポップシーンにおける松本隆の活躍を見れば自明だし、同様のことは本書に収録されている補論「はっぴいえんどのシティポップへの影響を風景論を通して考える」において岸野雄一も指摘している。

 寺尾聰『reflections』、および大瀧詠一『A LONG VACATION』が発売された1981年、つまりシティポップ全盛時代の幕開けとほぼ時を同じくして出版され、ポストモダン文学の金字塔となった『なんとなく、クリスタル』(田中康夫 新潮社)では、よく知られる通り本文中に散りばめられた400を超える固有名詞と脚注が、バブル経済前夜の消費文化に対する諧謔をはらんだ批評の回路として機能した。興味深いことに、『なんクリ』でいわば”イジり”の対象として誇張されて描かれた都市風俗は、一部の読者にとっては次第にアクチュアルな憧憬の対象となり、「クリスタル族」というフォロワーの出現を生むまでの人気を博すことになる。そのため『なんクリ』はかつて実在した人々を活写しているかのようにもとらえられることもあるが、同書が書かれた意図はあくまでカリカチュアだったのであり、主人公たちの言動や消費行動、彼女ら彼らが生活の舞台とする東京ですら、本当の意味では実在しないものだった。

 また、シティポップを語るうえで落とせない要素に、永井博や鈴木英人、わたせせいぞうらの手になるアートワークを採用したアルバムカバーの数々がある。シティポップときいて、音楽よりもむしろこれらの絵を先に想起する方も多かろう。こうしたアートワークはいずれも大きくデフォルメされた都会の景色やプール、海辺、ヨットなどを描いたもので、恐らく多くの場合米国の西海岸地域が意識されているのだろうが、いずれにせよ匿名的な風景ではある。
 これは、同じ都市生活者向けの音楽としても、2000年代末から人気を博したGoon TraxのジャジーヒップホップコンピレーションCD『In Ya Mellow Tone』シリーズが、見る人が見ればどこか一瞬でわかるような、実際の街の夜景の写真をカバーに採用し続けているのと対照的である。
 実在しない場所を描いたシティポップのカバーアートは、「カンパリソーダ」「カーステ」「渚のカフェバー」といった、都会の消費文化を彩る記号を散りばめたその歌詞世界と同様、表面的には華やかでありつつも、どこか空虚さを漂わせている。

 実在しない都市とそこでの生活が、あたかも実在するかのように取り扱われ、憧れの対象となるという現象は、ポピュラーカルチャーならではの偶発性に駆動された倒錯のようでありつつ、一方の半面ではボードリヤールが指摘した消費社会の神話と構造から導かれる必然のようにも思える。
 このシティポップの精神は、2010年代に台頭した新しい世代のシティポップの作り手たちにも引き継がれている。しかし彼らの一部は、まったくいちから存在しない都市を描くのではなく、むしろかつて存在した(そして今は失われた)ものとしての豊かな都市を描き出し、聞き手にノスタルジアを呼び起こす音楽を作ろうとしている。
 2012年発表のceroの2ndアルバム『My Lost City』はタイトルの通り、直前に起きた震災の影響を色濃く反映しながら、失われた都市の風景を描くことを試みた作品である。タイトルトラックの歌詞は衒学的でもあるが、「カーステ」「享楽と空白」「都市の悦び」などの語を含み、明らかに80年代のシティポップが湛えていたクリスタルで都会的な価値観を意識していると考えられる。
 しかし、ceroのメンバーが84~85年生まれであることを考えると、彼らにとっての原風景とシティポップが描こうとした風景は一致しないはずだ。フロントマンである髙城晶平は東京都出身だが、彼が物心つく頃に見ていた東京は、全盛期シティポップの作者たちが見ていた東京とは異なるはずである。彼らにとっての「シティ」はどこにあるのか。

 古典的な芸術論において創作の基本的なあり方を示す言葉に、ギリシャ語のミメーシス(mimesis)がある。この言葉は模倣を意味する英語のミーム(meme)やミミック(mimick)と同源である。つまり芸術における創造行為は何らかの模倣であり、創ることと嘘をつくことの象徴的な次元における近接性が示唆される。
 シティポップが一貫して描いてきた「シティ」は、決してわたしたちリスナーの前に現前することはない虚構である。それでいてなお、シティポップの音像や歌詞、カバーアートが、どこかで聞いたこと、見たことがあるような、何らかの懐かしさに似た感覚を惹起するのも確かである。
 わたしたちがシティポップを聴くとき、心の中には、いま・ここを超えて、「実際には到達しなかったが、何かが違っていたらありえたかもしれない現在(あるいは過去)」が立ち現われているのではないだろうか。わたしたちがシティポップから受け取るノスタルジーは、そうした可能世界を対象としたものなのではないだろうか。『ダンサー・イン・ザ・ダーク
を参照するまでもなく、聴き手の目の前にある景色ではない別の景色を出現させる力は、音楽が持つ偉大で不思議な機能のひとつである。

 過ぎ去った、あるいは、実は存在してすらいなかったかもしれない、好景気極まりない80年代の東京の、享楽的で刹那的な風土(フード)に付帯したムードを運ぶ文化的ミーム - この祈りにも似たシティポップの嘘を、大いに味わっていこうではないか。



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