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[読書の記録]粥川準二『バイオ化する社会』(2013.07.13読了)

粥川準二『バイオ化する社会-「核時代」の生命と身体-』(青土社)を読んだ。


 著者は生殖医療技術、遺伝子診断技術、再生医療技術などの発達と普及により、われわれの生命や社会に対する認識が、最先端のライフサイエンスの知見に規定されるようになることを「バイオ化」と呼ぶ。

例えば、

人の一生とは、自分の遺伝子を残すためのタイムリミットだ。生命とは、遺伝情報を次の世代へと伝えていく容器に過ぎない。

メタルギアソリッド2(コナミコンピュータエンターテイメント 2001)

といった言説がポピュラーになったのは、遺伝子情報がわれわれの物理的な身体から切り離しうること、むしろ塩基配列の組み合わせについての”情報そのもの”として価値を持つことが広く理解されるようになった、ヒトゲノム計画以降だろう。「バイオ化」の一側面である。
 あるいは、生殖医療が広く普及したことにより、血の繋がりが無くても産みの親になったり、精子ドナーとして見知らぬ人の父親になったりといったことが普通にありうるようになった。これに伴って、伝統的な家族制度についての認識は急速に相対化されている。

 バイオ化が進行すると、ライフサイエンス的な知見から「優れている」「劣っている」といった価値判断を含む線引きがなされるようになる。
 例えば出生前診断技術の向上に伴って妊娠中絶が増えている事実は、生まれてくるべき子供/生まれてくるべきではない子供の間に不可視の断絶線を引いている。また、福島において線量の多い地域に住んでいる人とそれ以外の地域に住んでいる人たちに対するまなざしは異なってきていることが示唆される。
 こうした「科学的」な知識に基づく線引きは、ナチの優生学など、過去にバイオ化が招いた悲劇となんら本質的な差は無いのではないか、と筆者は警告する。科学をカサに着ると、価値判断が含まれる線引きであっても客観的事実のように受け取られる可能性があるのが危ないところだ。

 社会のバイオ化はまさに「知とは力である」というフーコーの有名なテーゼを裏書きしているのだが、もちろん科学的な知がわれわれの認識(epistemology)を規定するという事態は、ライフサイエンスのような自然科学に限ったことではない。
 アダム・スミス以降、経済学において労働力の抽象化が行われたからこそ、私たちは例えば知人の結婚による退職を、日本の産業競争力の低下と結びつけて論じることができる。そこでは、知人は労働力の単位として、本人の実存とは切り離されて抽象化されている。
 同様に、私たちの遺伝情報がビッグデータ()として集合的に扱われるようになっている今、私たちの身体は「資源」として、労働力とはまた違った形で抽象化され、動員されている。
 マルクスは抽象化こそが資本主義において剰余価値を生み出す原動力であるとしたが、ライフサイエンスの進展による生の抽象化はまた、幹細胞研究への莫大な投機やテイラーメイド医療への過大な期待などの剰余を生成しているように思う。

 ところが、もう少し考察を進めると、このように新たな次元でわれわれの生を抽象化するようなライフサイエンスの進展をもたらしたのは、バイドール法といった米国のプロパテント政策であったり、ベンチャーキャピタル文化であったりしたわけである。
 決して科学だけが社会や人間の様相を規定しているのではなく、社会の制度や規範もまた、科学を規定している。その意味で、科学革命以降のわれわれの生は重層的に決定されていることを忘れてはならないだろう。

 日本でも先日、幹細胞の臨床研究が解禁になった。国家の基幹技術として再生医療への期待がますます高まる中、剰余価値が滞留して恐慌に陥らないように慎重にハンドルしていく必要がある。

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