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【短編小説】カニ食い夜行


空一面に雲がかかり、夜空には星も月もない。
夜雲の下には、山のかたちの真黒なかたまりがいくつも連なっている。

山間を縫って、高速道路のオレンジの電灯が、ゆるやかにカーブしながら伸びる。

大きなトラックが、夜の静寂を壊しながら高速道路を走っている。10mほどのコンテナを積んだ長距離トラック。ひとつのタイヤは熊ほども大きい。


運転席には、襟のよれた青いポロシャツを着た中年男。髪は短く刈り上げられて、社名が印字された贈答品のタオルを首に巻いている。

隣の助手席には、小綺麗な白シャツを着たおかっぱ頭の少年が、大きなシートにちょこんと座っている。

少年は下を向いている。中年男も黙っている。


「……東京のどこに行きたいんだ?」
男が前を向いたまま話しかける。

「……がいい」
少年の声は小さく、エンジンの音にかき消される。

「なんて?」男が聞き直す。

「できるだけおおきな街がいいっ」
少年は音量を上げて言い直す。

返答を聞いて、男は目を細める。
「大きな街って、決まった目的地があるわけじゃないのか?」

「……うん」

「おまえ、東京行ったことある?」

少年は首を横に振る。

「だろうな」男は小さくため息をつく。
「東京ってな、どこもかしこも、遠慮なしに大きな街だらけだ」

少年は男の横顔を見上げる。
「おじさんの行きやすいところでいい」

ふたたび沈黙。
男はチラとデジタル時計を見る。22:23。

「……家出か?」

少年は窓の外を見たまま返事をしない。

「おまえんち、金持ちだろ」

少年は少し驚いて男の方を向く。

「そのシャツのロゴ、おまえそれ何か知ってるか?」
男は左手で、少年の胸あたりを指差す。

少年は顔を真下に向けて、胸のロゴを確認する。翼を広げた鳥のロゴ。
「しらない。おかあさんに、これ着なさいって言われて」

「そりゃ、アルマーニだな」

「あるまーに?」

「それ、たぶん一枚5万円とかするぞ。もっとかな?」

「……それって、たかいの?」

「はあー、絵に描いたような世間知らずのぼっちゃんだな」
男はおおきなため息をしながら、体を前に倒した。
「いいか、シャツなんてのは2,000円ありゃ買えるんだ。それが5着もあれば、とりあえず人は異臭を放たずに生活できる。それでもまだ1万だ。5万のシャツなんて、金に困った記憶のない天上人さまの買い物だよ」

少年はくちびるを尖らせる。
「そんなこと、言われても」

「……まぁそうだな」


山の影は少しずつ低くなり、遠くに街のあかりがぼんやりと見える。交通量はまばら。平日夜の高速道路を走るのは大きなトラックばかり。

「おまえ、名前は?」

「え?」

「乗せてやってんだ。自己紹介くらいしろよ」

少年はすこし迷ってから答える。
「……姫川光春」

男は光春を向く。
「えと、聞いといてなんだけどな、あんまり軽はずみにフルネームを答えるもんじゃないぞ。今の時代、フルネームが分かれば調べられることなんてたくさんある」

光春は、聞いたから答えたのに、という表情で男を睨んだ。少し男はたじろいで、前を向き直す。

「……山路昭夫、だ」


昭夫はカーステレオをいじってラジオをつける。チャンネルをザッピングして、2周くらい回ったところで結局ラジオを消した。

「で、姫川光春、家出の理由はなんだ?」
昭夫が質問する。

光春は窓ガラスにおでこを押し当てたまま、答えない。

「じゃあ質問を変える。東京行って何するんだ?」

「……カニを食べる」

「は?」

「カニ。東京で、カニを食べるんだ」

昭夫はぼりぼりと頭を掻いた。
「カニ、食べたことないのか?」

「うん」

「金持ちなのに」

「甲殻類アレルギーなんだ。甲殻類だけじゃなく、いろんなアレルギーあって。小児ぜんそくもあった」

「体が丈夫じゃないんだな」

「でも、むかしより良くはなってるんだ。お医者さんも、もう運動しても大丈夫かもって言ってて。甲殻類だって少しなら体壊さないって……だけど、お母さんが許してくれない」

「許してくれない?」

「食べるものぜんぶ、お母さんが決めてる。僕は僕の好きなものを食べられない。それに、外に出るのもなかなか許してくれないんだ」

「不自由なんだな」

「僕は岐阜をほとんど出たことないから、大きな街のことは動画とかでしか知らなくて」

「アルマーニなんか着てるのにな」

光春は、まっしろでしわのない自分のシャツを見て、それから、ところどころシミや汚れのある昭夫のポロシャツを見る。
そして窓の外を向く。いつのまにか車線は3本になっていて、まわりの車もだいぶ増えた。等間隔で空中に光る熟れたびわのような電灯が、トラックを街のほうへ誘っている。

「でも、なんでわざわざ東京いくんだよ。カニなら岐阜でも食えるだろ」
昭夫が質問する。

「少し前にテレビで見たんだ」
光春は外を見たまま話す。
「ひとつのビルに5個も6個もお店の看板がくっついてて、そんなビルが、通りにずらりと並んでるんだ。隣の通りも、その隣も、同じような感じで、どこもワイワイ賑やかで、お店の中も人がたくさん。そんな場所」

「新橋とかかな?」

「サラリーマンがそこでカニを食べてた。パキって殻を割って、するするって綺麗に身を取り出して、カニをこう、上に持ってきて、口をあけて下から食べるんだ。まるでカニで自分を釣り上げるみたいに」
光春は、カニの足を食べる真似をする。

昭夫はその様子を見て、表情を緩める。
「……それがおまえの憧れになったんだな。自分の知らない大都会東京で、自分の知らないカニを食べてみたい。人の夢っていろいろあるんだな」

「家は窮屈でいやだ。お母さんの子供というか、これじゃペットだ。カナリアとかインコと変わらない」

「それで家出して東京へ、ね。しかもこんなご時世にヒッチハイクなんて」

「おじさんは、子供の時そんなことなかった?」

昭夫は、あごをさすりながら過去の記憶を漁ってみた。
「うーん、縛られてるって感覚はなかったかな」

「いいなあ」

「そんないいもんじゃない。よくいえば自由。悪くいえば、放置、だ」


昭夫は左のウインカーをつけて、ハンドルを少しきる。トラックは追い越し車線から走行車線へ、水に入っていくカバのようにゆっくり移動する。

昭夫は回想する。
「うちは何も縛られなかった分、何も与えらえなかった。だから、高校を出たときも、どこで何をしていいかなんて分からなかった。勉強もろくにしてないから、できることだって限られてるし」

光春は黙って話を聞く。

「何年か建築現場で仕事をしてたんだけど、ちょっと何か挑戦してみようと思って、ラーメン屋を開こうとしたんだ。知り合いに、開業準備とかそういうの手伝ってやるって言ってくれるやつがいて」

「へえ、ラーメン屋」

「だけどな、ラーメン屋は結局開けなかった。開業資金として俺が貯めた250万を、そいつは盗んでどっかに消えちまったんだ」

「え、お金、盗まれたの?」

「お前は知らないだろうけど、世の中にはそういうやつがたくさんいる」

光春はごくりと喉を鳴らした。

昭夫は続ける。
「自由って、聞こえはいい。だけど自由って言葉の周りには、自由を餌にして誰かを騙そうとするやつとか、自由と身勝手を履き違えて平気で人を傷つけるやつとか、そういうヤバイのがたくさんいるんだ」

「……」
少年は、認識と現実の差に戸惑い、フリーズしている。

「おまえの母ちゃんだって、社会の怖さは知ってるはずだ。だからさ、少し極端なところもあるかもしんないけど、そういう自由の世界でおまえが簡単に傷つかないように、いろいろ考えてるんじゃないかな」

「僕が、傷つかないように?」

「今だって、とんでもなく心配してるだろうよ。心配し過ぎて気絶とかしてたりして」

光春は、発狂する母の姿を想像して、少し申し訳ない気持ちになった。


しばらく走ると、はるか先の方に赤い光の群れが見えてくる。高層ビル屋上の航空障害灯の光たち。

「ほら、お望みの大都会だぞ」

光春はシートから腰を浮かして、遠くに瞬くルビーのような摩天楼を凝視する。

昭夫はデジタル時計に目をやる。23:44。
「今からおまえが入れるような店はもう空いてない。下手すりゃ警察に保護されて終いだ。東京に着いたら、このトラックで寝とけ。明日、俺がカニ食わしてやるよ」

「えっ?いいの?」

「まあ俺ももうカニの口になっちまったし。それに、カニってのは、ひとりで食うもんじゃない。誰かと一緒に食うもんだ。人生はじめてのカニなら尚更」

それを聞いて、光春はその日初めての笑顔を見せた。

「だけどな」昭夫は続ける。「カニ食ったら帰るんだ、おまえの母ちゃんのところに。で、ちゃんと話してみろ。母ちゃんだって、きっと分かってくれるさ」

光春は大きく頷く。



「さ、もうすぐカニの街だ」

夜の雲の下には、宝石の畑みたいな都心の光が広がっている。

トラックは、オレンジ色の道路の上を、街へ向かってゆっくりと進んでいく。


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