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最近の気付き

人はそれぞれ、暮らしの中でいくつかの役割を演じていると思う。家族のいる人であれば、家の中でもそれが続くだろう。

私も、母親を演じる合間に、ふと一人の時間に息をつく。もちろん、母親役が嫌なわけじゃない。しかし、役割をこなそうと必死なあまり、疲れてしまうことがあるのも事実だ。






父は、私の中で絶縁どころか、そもそも絶つ縁すら形成されていなかったと感じる人だ。しかし、母に比べたら、父は彼なりに「父親」という役割を演じていたように思う。

それが「正しい父親像」という訳では決してなかったが、少なくとも子どもたちの前では気を張っていたというか、自分を演じていたのではないかと思う。

一方、母は、父の前では常に緊張していた。癇癪を起こさないように、先回りして問題を解決し、呼ばれれば飛んでいった。それはさしずめ、「母親」のようだった。

母も、私たち兄妹が幼い頃は文字通り母親役をやってくれていたのだと思う。しかし、ある程度成長すると、子どもたちより父親に手がかかるので、母親の役割は父の前で使われるようになった。

その代わり、母親が私に見せていた部分が「パートナー」の役割だと思う。私も、育児や家事に疲れた時、夫に甘えることがある。二人きりの時に、数分肩に頭を預けるだけで、また「母」として頑張れるのだ。

私の母は、娘にその役割を求めていたのではないだろうか。父親に接する母親は、身の回りの世話を焼く「母親」そのものだった。反対に、私に育児(父の世話)の愚痴を吐き、また母として頑張る。それを繰り返していたような気がする。

父親は、むしろ正しく、母親と二人きりの時に息をついていたのではないだろうか。その証拠に、母親が必死で引き止めていた娘が家を出た途端、落ち着いたらしい。大好きな“母親”が自分のことだけ見てくれて、自分は「父親」を演じる必要がないからであろう。

以上のように考えると妙に納得するというか、色々なことが腑に落ちるのだ。もちろん、母は子育てと家事をやってくれてはいたが、私との間では精神的に立場が逆転していた。何の悪気もなく、全ての愚痴を娘に吐く様は、パートナーを通り越し、時折子どものようにも見えた。

もしかしたら私は、長い間“親”の役割をさせられていたのかもしれない。





最近、長く書かないと投稿できないと思い込み、下書きが溜まっているのでこの辺で。

おやすみなさい。また、あした。

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