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クリエイターだけどクリエイターの素質が無いことに気づいた話

はじめに

僕は長年クリエイターとして活動して多くの絵や楽曲、ゲームを出してきた。
しかし、それは決して平坦な道のりじゃなかった。
僕が出した作品たちは多くの人に愛されることは無かったから。

そのことにいつも悩まされてきた。
人気な絵師、動画製作者、ありとあらゆるクリエイターになることができない、その隔たりにずっと疑問を抱いてはあの人たちと同じになろうと試行錯誤を繰り返してきた。

しかし、結局それが実ることは無かった。
その事実に病み、やがてこう思うようになった。

僕ってクリエイターだけどクリエイターに向いてないな。


しかし同時に矛盾だった。
多くの曲を作り、動画も作り、絵も描くしAudiostockで稼いでいる。
はたから見れば色んなジャンルを手掛けるクリエイターに見えるはず。

なのに自分自身にそう思ってしまうようになった。
発作のように、忘れた時に無意識に思い、そして勝手に病む。
そして触れないようにスルーしていた。

そんなある日の夜、寝ている時にそれらに関する答えが降ってきた。
それは、クリエイターの本質だった。


クリエイターの定義の再認識

翌日の朝、昨日の気づきを思い出すことに必死だった。
まるで天啓のように、僕の頭に降ってきたからだ。

その内容はこうだった。

クリエイターは人の心を動かす力が、最も重要な才能だ。


以前まで僕はクリエイターというのは、絵や曲を作る人という認識だった。
例えるなら、絵を描いてPixivに出せば、その人はクリエイターという単純な考えをしていた。
間違ってはいないが、○ではなかった。

それは僕が今まで出した作品に対する反応がその証明だった。
昔はR18絵を出すだけでも閲覧数1000は行くことができたが、今はもう半分の500を超えることすらもできてない。

どんどん僕の作品が、まるで価値が無いと言わんばかりな冷たい反応をされてるようにも見えた。
しかしそうではないことは、あの気づきが教えてくれた。
僕には欠けているものがあるということを。

***

結論から書くと、僕には人の心を動かす力や才能が無い。
どちらかと言えば、僕は物を作る技術者だと言える。

クリエイターと技術者、一見するとどちらも物を作る人だ。
しかし明確な違いがあった。

まずクリエイターは主に創作をする人のことを指す。
絵描きや作曲、動画制作、小説など主に芸術に関することを作る人だ、
Wikipediaでは、芸術をこう表している。

芸術(げいじゅつ)またはアート(希: (η) τέχνη、 téchni、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などが、芸術の諸分野である。


PixivやTwitterで素晴らしい絵がタイムラインに流れることがしばしばある他、小説ならなろう小説といった媒体もある。
それら全てが芸術に属する。

そうだとすれば、僕が作った作品たちも芸術に属するのでは?
ここまで読んできた人も、もしかするとそう感じるかもしれない。
しかしWikipediaで書かれている芸術の概要は本質の一部にすぎない。
僕が求めていた答え、もっと根本的な本質は書かれていない。

僕が気づいた根本的な本質とは、先程記述されたクリエイターは人の心を動かす力が、最も重要な才能のことだ。


人の心を動かす力

人の心を動かす力は色んな要素がある。
感動、ホラー映画なら恐怖体験、最近では尊い・エモいもそれに属する。
(残念ながら、僕には尊いやエモいといったことが理解できてないので、うまく表現や説明ができない。)

Twitterを漁れば、言わば尊いイラストが出てきては尊い・尊死だのリプ欄に溢れる光景を見れる。
これらはWikipediaに書かれた精神的・感覚的な変動のことを説明していると僕は考える。
それらをもっと噛み砕いた説明が、人の心を動かす力だ。
もっと噛み砕くと、点と点を結ぶ力のことを表せる。

***

先程の尊い絵で例えてみよう。
ウマ娘の尊い絵があるとして、その絵はリツイート・ファボが4桁あって、リプ欄には尊いだのアグネスデジタルの絵が溢れかえっている。
(ピンと来ない人は実際にTwitterでウマ娘の絵を探してみよう。)

その絵を起点として、多くのウマ娘好きが多く集まっては、リツイートで拡散される。
つまり、絵によって人という点が拡散という形で線を結んでいることが分かるだろう。


一方で僕のイラストはどうだろうか。

最近のが出てきたのでそれで比較してみよう。

まず去年描いた左の絵、これは反響は一切無かった。
次に今年描いた右の絵、これは僕がハマっていたことだま日記というアプリの二次創作絵だ。
ファボが2.3名ほどで、ゲーム公式絵師に巡回済みだ。

この拡散力の無さは一目瞭然だ。
僕には人の心を動かす力・才能が無いことが頷ける結果だと考える。


現に、絵が上手い人や技術を持ってる人ですら、あまり拡散されていないクリエイターがいる。
その人も恐らく、先程の才能を持ってない可能性がある。

さらにその才能は技術で掴むものことができず、唯一それを技術として昇華されてる術はマーケティングぐらいしかない。

だから絵が上手くない人でさえ、人の心を動かす才能さえあれば、人気になれる権利を得られる。
それは決して絵だけではない。
音楽、動画、ゲーム制作、小説、ユーチューバー、Vチューバー、ストリーマーなど、現代における全ての創作も同様に当てはまる。

そして現代はさらに残酷で、その才能がある人には平等にチャンスを得て、ない人にはどれだけ技術やノウハウがあろうとも、チャンスを得られない。

生まれ持った・育った環境によって、その才能を掴める可能性も全て決まってしまう。


物を作るだけの存在

クリエイターだけど、クリエイターの素質が無い。
それに対する答えがようやく見つかった。
僕には先程の才能が無いが、物を作ることができる。
だから僕はどちらかと言うと技術者だと答えた。

僕は長年曲や絵、動画などを作ってきて、技術やノウハウはある程度ある。
あくまでそれだけで、芸術を作ることができない。
僕が作るものは、真っ白なコップや食器のような物だと考えている。

でも悲観する必要は無いことも理解した。
僕にはチャンスや才能が無かった。スタートラインすらも立っていなかった。
僕が今まで悩んでは病んでいたこと。満たされないこと。気に食わないこと。
それらにケリをつけることができたかもしれないと思っている。

さらに噛み砕くと、僕には縁が無かった。

人の心を動かすことも、人との付き合い、そして人と相まみえることすらも。

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