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#023 僕らの服は、結果であり、作品である

こんばんは、代表の笈沼です。

この仕事をしていると、病気や怪我を今、患われている方、これまで闘病をされてきた方、ご家族とともに終末を過ごされている方、大切な人を亡くされた経験がある方など、一言では表せない状況にいる方々との多くの出会いと、その後のやりとりがあります。

そのやりとりの中で、僕らはご本人やご家族のストーリーに引き寄せられ、背景にある事情を知り、さらに奥にある様々な心情に出会います。服を作ることが僕らの仕事ではあるのですが、多くの方々と接する中で、僕は、服はあくまで結果に過ぎない、と思うに至っています。

ご本人やご家族の痛みに誠実に寄り添う、でも、その痛みを理解するなんておこがましい。だから、お話に傾聴し、その過程から学び、想像力をもって対話を続ける。それが、僕らにできる最優先かつ最低限のことです。たとえ、「最低限のこと」で終わったとしても、それでいいじゃないか、と僕は思うのです。結果、服につながらなくとも、その出会いと対話は将来の服づくりに必ず活かされる、大切なアーカイブとなる。

以前の投稿でも触れましたが、僕らが扱うケア衣料は、華やかなものをより華やかにする服ではありません。身体が感じる、痛み、疲れ、けだるさ、こわばり、重さ、心にある、後悔、諦め、悔しさ、もどかしさ、恥ずかしさという、装飾美が起点にある多くの服とは全く対局にあることと向き合うことから僕らの服づくりが始まります。

でも、僕らは医師でも牧師でもありません。だから、それらを治療することも治癒することもできません。では、何をしているかと言えば、服によってユーザーの心情に寄り添うことに挑戦しているのだと思います。つまり「服の不自由」という共通のテーマのもと、デザイナー、パタンナー、看護師、介護士、ディレクター、工場が集い、それぞれの知見、思い、想像力を最大限に活かして僕らなりの答えを服に対して導き出すことで、寄り添う。

だから、僕らの服はモノというよりも作品、共同作品なのではないかと思うようになりました。まず、ユーザーがいて、その方の「服の不自由」を解消するというミッションのもと僕らは集い、ユーザーの課題を理解し、解決策として服を作る。不思議なことに、僕らが作るすべての服が同じ過程をたどります。必ず、人が起点であり、人と人との偶然の出会いがあり、必然的に共同作業が進められ、その結果、作品としての服が生まれる。

ですから、一つ一つの服が生まれたストーリーを丁寧に、誠実に、外へ伝えていく覚悟と責任が、服づくりに携わった僕らには当然にあります。それは、先にモノがあり、それをどう外へ伝えるか策を練るマーケティングとはどうも逆のように見えます。ブランドもあくまでその過程を経て結果として蓄積された無形資産であり、ブランディングという表現さえ、逆に思えます。

ケアウィルにとって服はあくまで結果であり、人が中心となって生み出された作品だと、僕はそう思い始めています。

それでは、また。


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