情熱とスープの温度。

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仕事をするにしろ、なんにしろ
人と情熱を共有していくのは難しいなあ、と思う。

共有したり、冷めている人や組織の温度を上げられたら
色々な仕事が出来ると思うから 
毎回それに取り組むんだけど、たまに「う~ん・・」と感じる。


20代の頃って「情熱さえあれば伝わるはず」みたいに思っていて
人の意見を聞く余裕もなく
自分の考えが正しい。どうしてこれが分からないんだろう?
本気で思っていた節がある。

30代に入ったあたりで、たとえば有料老人ホームで働いていた頃
日々の仕事も チーム作りも ほとんどうまくいかなくて
散々 悩んだことがある。

ケアマネジャーと介護長という仕事を兼務していて
オープニングの施設だったから 自分としてはやる気だったのね。
(この「自分のやる気」にフォーカスしてしまい、他人が見えなくなった

未経験のスタッフさんが多くて 
まだお客さんも少なくて、時間はたくさんあったから
しょっちゅう「どんな施設にしたいか」「こんな組織が良いよね」みたいな
ミーティングを繰り返してた。
でも、みんなの反応があまり熱くない。意見も無い。

「みんなの前では言いにくいのかな?」と思い
1対1の個別ミーティングを組んだ。

最初は自分の構想というか、「こうだよね」みたいな話を繰り返した。
だんだん、スタッフさんの顔が曇っていく。とても辛そうだ。
他の人とミーティングしても、同じような感じになる。

そんなことを半年くらいやっていて
スタッフさん達が頑張っていたのとは別に
自分としては「なんか熱くならないな」と感じていた。
勝手だね。

ある日、スタッフさんから

「もう個別面談はやめてください。

 みんな嫌がってますから」と言われた。

自分もなんだか疲れてきて、ちょっと考えるのをやめた。

今までウザったく色々と語ってきた人が黙っちゃったからか
それまで一緒に働いてきた関係性があったからか

逆にスタッフさんから、ポツポツと
仕事やプライベートの相談を受けることが増えた。

特に仕事のことは、10のうち8か9くらい
愚痴や意見を聴いて
最後の2か1くらいの自分の意見を言うと
今までよりは すんなり聴いてくれた。
自分も、彼らの考えや気持ちが聴けて
全体の判断をするのに役立った。

それまでは「なんで一気に100℃くらいにならないんだろ?」
と思っていたのが
「今は50℃くらいがちょうどいいのかもな」と思うようになった。
そもそも、自分の思う通りに人の温度が上がるなんて
傲慢にもホドがあった。
50℃には、50℃の心地よさがある。

その頃「ああ、そうか」って思った。

情熱もスープも、相手が飲みやすい温度でないと

いくら自分が一生懸命作ったスープでも
「ほら、これ美味しいだろ」って出されても
「いや、ちょっと熱すぎるし」みたいなこともある。
美味しいかどうかの前に、ちょっと勘弁してよ、みたいな。

正論なのは分かるけど、その理想論を受け入れる準備がないと
それは空回るんだな、と感じた。

相手が「聴ける」ようなタイミング、声の大きさ、表情、
自分のコンディションとか、お互いにこれはあるんだから
そこに配慮しないとなあ、と。
いまだに、これが難しい。

ここ4~5年くらいは、すごくその点で力を抜いているから
周りのほうがしっかりしているというか
NPOでもメンバーにけっこう突っ込まれたりすることが多くて。


それに、今は誰と相対しても変わらない価値観があるから

余計な緊張も気負いもなくなった。

それは

「どんな人も、生まれて、生きて、死ぬってことは

 自分と何も変わらない」ということ。

そのうえで、相手をリスペクトしているから

相手を見る余裕も出来たのかも知れない。


そうすると、自分にも情熱があり

相手にも情熱がある、ということに気づいた。


それでいいのだ。

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人や自分を信頼していれば、適切な力の抜き方も分かってきて
ほどよく力の抜けた人には近寄りやすいしモノも言いやすいから
いい感じのチームになるのかも知れないね。


ただね、「これは絶対にやらねばならぬ」ということは

自分が誰よりも温度を上げていかないと

誰の導火線にも火はつかない。

相手が100℃なら、自分は1000℃以上に。

そこは思う存分、エゴイスティックであることが

絶対条件だと思う。

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【 NPO法人care nation 】

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