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ナラティヴ・リトリート気仙沼の記録(2024.04.28〜29)

はじめに

2024年4月28日(日)&29日(月)
気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 など

気仙沼に緊急派遣カウンセラーとして勤務した経験を持つ、NPACCの国重浩一さんに機会をいただき、震災後はじめて、気仙沼に足を運びました。これまでも現地に行ってみたいと思いながらも、ただ観光として現地をまわるのも少し違う気がしており、どのような形でいけばよいのかがわからず躊躇していたところ、人の語り(ナラティヴ)と共に、気仙沼を訪れるという今回の企画に、自分の五感を使って「感じる、知る」ことで、「対人援助職として、ひとりの人間として何ができるのか」を考えることができそうだと思いました。

「知る」ということについては、震災の様子はメディアでも度々報道されていたので、映像情報としては知っているつもりでした。ところが、実際に現地で被害に遭われた人びとのお話を直接伺うと、自分が予測したものとは異なるものもあり、認識のズレやはじめて気づくこともありました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

2011年3月11日発生の東日本大震災による大津波とその後の大規模な火災は、死者1,143人(震災関連死を含む)、行方不明者212人に上る最大級の悲劇を気仙沼市にもたらしました。
(人的被害は住民登録ベースによる。気仙沼市ホームページ参照

1階保健室
折り重なった車

津波が第1波、第2波、第3波と次々に襲い、その度に強力な「引き波」が、地上のものを海へと引きずりこみました。ここは引き波の通り道となり、流れてきた車がこの場所で引っ掛かり、折り重なったそうです。

破壊された体育館
冷凍工場の激突跡

津波で流されてきた冷凍工場が、南校舎4階のベランダに激突。壁面は破損し、激突した方向に折れ曲がっています。

「被災者」を一括りにしない

今回の滞在で、震災被害に遭われた人びとのお話を伺うことができました。気仙沼、南三陸の地で震災を経験し、その後を生きるということについての苦悩や葛藤、レジリエンス、とても切なくなるような気持ちを堪え、さまざまな想いを受け取りました。

なかでも印象的だったのは、ご自身の家も津波で流されながらも、カウンセラーとして子どもたちのために活動を続けていた、スクールカウンセラーHさん、養護教諭Mさんのお話で、

「まるで映画を見ているようだった。」
「はじめは実感がない。」
目の前の出来事をどこか客観的にみていたというHさん。信じられず受け入れがたい光景ということもあると思いますが、よくよくお話を伺うと、

私たちは、震災のことを震災直後から多数の映像情報で見ることができましたが、現地では地震が来てすぐに電気が止まったので、映像らしい映像を見ていないという。
いま何が起きているのか、全体像がわからない。自分の目で見える範囲のことしか、わからなかった。今ひとつ現実感が持てない気持ちがあったようです。
そして、目の前のいつもの景色が変わる。あるべきところにあるものがない。ことによって、はじめて津波がもたらした被害を自分の感覚として感じられたようです。

「被災地、被災者という基準が何なのか。」
何をもって、被災者というのか。
もうひとつの気付きとして、自分たちが「被災者」と呼ばれることに、いまいちピンと来なかったとお話されていました。

人が亡くなったから被災者なのか、
家が流失したから被災者なのか、
そのとき、気仙沼にいたら被災者なのか、

当事者たちは、本人の気持ちに関わらず「被災者」と位置づけられてしまったという事実。それを複雑な気持ちで受け止めている人びとがいるということを知りました。

また、避難所や仮設住宅での生活・学校では、それぞれの役割と判断があり、震災後まもなくして、辛い環境下での生活はありながらも、そこには日常があった。というお話をいただきました。外にいる私がイメージしていたような「被災地」「被災者」の非日常とは、異なっていました。

そして、あれだけのことが起きたのだから、現地の人びとは「大変に違いない」「苦しいに違いない」ということを勝手に思い込んでいたのだと気づきました。
同じ地震を感じ、同じ津波を見たとしても、人によって感じ方も異なれば、考えたことも違うはず。そこには、個別の事情があったはずで、被災した人びとを、「被災者」という表現でひとくくりにすることは、失礼なことかもしれないとも感じました。

被災地で使う言葉の模索

気仙沼高等学校 荒木順校長先生の話からは、
当時高等学校で起きていたこと、震災被災地において外にいる者に何ができるのか、そのヒントを得ることができました。

メディアによる「負けない」「がんばろう」などの言葉の氾濫は、多くの人にとっては、「がんばれ言われても、何をがんばればよいのか(分からない)」
耐え難いもの、心に突き刺さるものとして受け取られている、ということ。

当時国重さんがお話されたという、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』にあるメッセージでは、人生で苦しい時に、どう立ち向かうか、心の糧になるものではないかと感じます。

「人生はどんな状況でも意味がある」
「人生は自身の振る舞いで決まる」
「あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である」

対人援助職として、どのような言葉を発していくのか、慎重になる必要があることがわかります。
ただし、被災した人たちにとって、安全な言葉を使うことが、「ありきたり」の言葉を使うことになってしまってはならないということ。たとえば、「大変だったね」「辛かったね」「苦しかったね」などの言葉は、相手の語りたいことを引き出せない。ということは国重さんも語っていました。

これという言葉がないなかで、自分の言葉がどのように受け取られるのだろうかという、絶え間ない内省・振り返りをする必要性を感じます。そんな中で、現場の支援者たちがどのように接してきたのか。ひとつ教えていただいたのは、「大丈夫」という言葉にはグラデーションがあるということ。どう大丈夫なのか、ナラティブアプローチで、相手の気持ちを汲み取る対応をしていくことを教わりました。

生徒の相談内容からみる心のケア

被災した人びとは、最初は皆同じ状況に置かれたと思えました。
ところが、復興する過程は、人それぞれであって、素早く仕事を見つけることができた人、新しい土地に移り住む人、家を再建できた人が徐々に出てきます。すると、その地区のコミュニティ内で、差異が生まれていきます。
最初は同じ震災を背負った運命共同体が形成されているのかもしれませんが、その後、その共同体内における違和感をお互いに感じてしまう可能性があるということなのです。

学校現場で生徒の心のケアにあたっていた養護教諭から伺った話からは、
震災発生後の相談内容では、

・震災により家、家族を流された
・仮設住宅での家族関係の変化、悪化
・腹痛や吐き気等の体調不良、涙が出る、違和感
・亡くなった同級生とその罪悪感
・車中生活の辛さ 心ない取材への怒り
・親の失業 親の別居生活 逃げ場の喪失

その翌年には、
・両親、親の死亡
・震災時の大変だったこと 思い出すと苦しい
・生活上の悩み
・家族構成の変化 人間関係での悩み
・親の仕事が忙しくなった 会話を遠慮している
・クラスが落ち着かない イライラする
・進路変更(親へ経済的負担をかけたくない)

その5年後には、
・震災や親の再婚など何度も引っ越し、親には負担かけたくない
・転居を繰り返したが親の精神疾患もあり学校に来るとほっとする
・再建した家からは真っ黒な海が見えてこわい
・震災後両親離婚、沢山引っ越して現在の仮設へ
・自分の子どもの不登校と姪の精神疾患への対応

身体的な不調・違和感・喪失感から、時間の経過とともに、トラウマ体験など建物の復興などは進むが、親世代の経済状況、自立支援、支援金での生活 などの課題があることが伺えます。

今回の経験を経て

大切な人が亡くなり、どんなに酷い状況に遭遇したとしても、生き延びた以上、がんばって生きていかなければならないという覚悟。現地の人びとがどのように震災被害について話をしているのか、どのように切り出すのかなど、感ずるところも大きかったです。

今回の体験を通じて、そこには、外から思うほどドラマチックなものでなく、内側の人たちは混乱のなかでも、粛々と役割と判断をもって、やるべきことをやっており、メディアの映像だけでは知り得なかった出来事がたくさんありました。やはり足を運んでみて見えるものが間違いなくあります。

「受け取ることの上手ではなき人々があらゆるものをいただく苦しみ」
梶原さい子さんの詩にも表現されるように、
被災された内側と外側の人びとのズレ。外から支援したい気持ちが先走ることがないように、関係性が先にあり、気持ちの温度差を少なく関わること、互いに無理なく活動できることを大切にしたいです。

現在、キャリコンサロンの活動のひとつとして、「ふくしま復興応援プロジェクト」活動に取り組んでいますが、まずは自分たちが関係人口となること、現地の人びとの声に耳を傾け、積極的に現地との関わりを持ち続けることをしていきたいです。

荒木校長が紹介してくれた、東日本大震災を題材とした震災文学
荒地の家族(佐藤厚志)芥川賞受賞』も読んでみたいです。


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