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初任給10万の修行、2回のうつから逆転!自分で掴んだ幸せな人生 その②

■建築士としてのスタート、そして広告の仕事との出会い

有名建築家の元で修行していたおかげか、入社試験の設計が認められ、地元のハウスメーカーでは最初から「建築士」として迎えていただきました。


お客様と打合せをし、図面を起こし、役所に申請し、着工すると現場監督のお仕事も任せてもらうことに!憧れのお客様の夢を形にするこの仕事に誇りを持ってやっていました。
尊敬する上司にも恵まれ、1年半で12棟を設計。休みの日には高校時代の友人と遊びに行く時間もでき、公私共に充実した毎日でした。
しかし、学ぶことも多く、気が休まる暇がない。建築の現場は男性が多く、「女性のくせに」と大工さんからなめられることも。
そんな時、上司から新しい支店を作る話が。ふたつ返事で転勤を承諾し、上司と2人で事務所を立ち上げを行いました。その際に事務所のPRや営業活動も経験しました。
それがきっかけだったのか、だんだんと建築の仕事に疑問を持つようになる自分がいました。
「○○さん(上司)、私って建築向いてますかね?」
「どうだろう?もしかしたら広告とか良いものを紹介する方が向いてるかもな。」
建築士は小学生の時から憧れていた夢でしたので、正直言われた瞬間はショックでした。しかし心のどこかで「やっぱり」という気持ちも(笑)。
尊敬する建築士である上司の一言だったので、きっぱりあきらめがつきました。
思い立ったら即行動の私。翌週、大好きな札幌の雑誌社に履歴書とブログを印刷したものを送りつけ、なんと面接で一発合格!
上司は「マジで!?」とビックリしてましたが「良かったな」と笑顔で送り出してくださいました。

■良いものを発信したい!天職との出会い

雑誌社では、札幌の女性向けライフスタイルマガジン誌の企画制作ディレクターとして働くことになりました。入社してすぐに関わったのは、百貨店特集。モデルを呼んで撮影を行い、その後はデザイナーに依頼して広告にする仕事です。華やかな世界でした。2・3 ヵ月経つ頃には上司の手を離れて独り立ちの状態に。他にも映画の試写会や料理教室イベント、飲食店のメニューを企画実行したり。全てが新鮮でした。
住まいはススキノから徒歩3分、札幌市の繁華街のど真ん中にある22階建てのタワーマンション。憧れの都会暮らし。
相変わらず忙しい日々ではありましたが、毎日フレンチやイタリアンなどのレストランでランチしたり、出会いも多く、これまでの人生が嘘のような毎日でした。
そして半年後には提案した企画が採用され、新千歳空港のフリーペーパーの創刊編集長も兼任することに!どうしたら読んでもらえるか考え、企画をしていく。

北海道のお土産やレストランの食事をカメラマンと撮影して、デザイナーと形にする。できたフリーペーパーは空港で配布され、多くの方々の手元へ。結果として、お土産屋さんの売上げもだんだん上がって行き、感謝の言葉もいただくようになりました。今や新千歳空港のお土産店は、日本一の売り場面積を誇ります。
また雑誌の仕事のディレクターも兼務していました。食べることが好きだったので、企画部の中でもメイン担当は飲食店。クライアントと直接で打合せをさせていただく中で、カフェのロゴデザインをしたり、飲食店のメニュー企画までしていました。

建築士より雑誌社の仕事の方が断然私には合っていましたね。社外のフリーカメラマンやデザイナーとチームを組み、多くの人と言葉を交わすなかで、アイディアを形にするのが楽しかった。そして雑誌社のスピード感、飲食店のスピード感が心地良い!いかに納期まで間に合わせるかということにわくわくしていました。
そうして、前任の予算の5倍の企画が通ったり、全ての粗利率を40%以上達成したり、入社1年半後には名実共に結果を出せるようになりました。
そうしたらもっと自分の結果を認めて欲しくなって。給料上げろ!と会社へ直談判(笑)当時は何でも自分でできると思っていたので・・・調子に乗っていたんだと思います。
しかし会社ですので、当然稼いだ分もらえる訳でもなく・・・(笑)

そうして仕事をこなしていく中で、「もっと広告と飲食の勉強をしたい。もっと稼ぎたい。もっと評価されたい。」と思うように。
たまたまクライアントに紹介された東京のコンサルティング会社を知り、応募も面接もしていないのに次の日には、上司に退職願をだしてました(笑)
そこから100万貯めて、東京へ。3回の面接に合格し、無事にコンサルティング会社への入社が決まりました。27歳でした。

■会社員なのに漫画喫茶生活、血を吐いて逃亡

東証一部上場のコンサルティング会社。年収はこれまでの1.5倍。
覚悟はしてましたが、研修は逃げ出したいほど厳しいものでした。
その後、外食事業部に配属され、お惣菜業態の新規開発プロジェクトに参加。店舗を開発するならば実際に現場を知らなければならないという方針のもとに、おばちゃんに混じりながら店舗の現場で働くことに。

そこでは朝の4時から仕込みを始め、日中は社員として店舗の営業、23時に閉店後は打合せをし、報告書を作成。気づけば夜中の1〜2時・・・。
帰る時間もないので漫画喫茶で寝泊まりする毎日。
ほぼ2〜3時間睡眠を三ヶ月くらい続けたある日、ついに職場で血を吐いてしまいました。
さすがにこれはもう家に帰って休もうと思い、上司に報告。


その際に「口から血が出てきた」って言っちゃったんですよね。
「吐血した」とか言えば良かったのに何故か「血が出た」って言ってしまって(笑)。上司的にはそんなに重大に聞こえなかったのか「血が出たくらいなんだ」と言われて。
それで私の中で何かがぷつりと切れて、全ての仕事を放棄し、逃亡(笑)

3日後に上司が家に来て、説得され、本社で働くことになったんですけどね。
本社では、商品開発などの仕事に関わることになりました。
具体的には、お惣菜事業のPOPや季節メニューのポスターなどの企画提案を行うこと。ここで北海道時代の経験が活きることに!デザイナーに依頼するよりも自分で作業した方がより、制作物を早く完成させることができるのではないかと考え、自力でIllustratorというデザインソフトを勉強し、自分で販促物の作成もできるようになりました。
そうして作ったチラシやポスターが統括上司の目に留まり、別の業態の販促物も任されることに!
飲食店の販促は、写真とキャッチコピー、そして構成が重要。撮り方や構図、大きさ、掲示位置を変えたところ、多くの店舗で売上が上がるようになったのです。
それからは、外食事業部の一人広告代理店のような感じで、様々な販促物に関わり始めました。
当時、飲食店の営業が終了した後の夜中の2時に先輩から電話がかかってきて「すまん、横山!明日の朝までにこれ作ってくれないか?」「マジっすか?今度おごってくださいね。」そんな感じで全国のお店に派遣された先輩や同僚から頼られることが増え、それがオカンみたいで心地良くて。
しかも、まさに自分でやりたくて掴んだボジションでしたので、やりがいを感じる毎日でした。
ところが、入社2年で外食事業部が解散!早期退職された方もいましたが、私は仲間の役に立ちたいと、最後までもがきました。でも結果は空しく会社は倒産することに・・・。

その後は、別の分野の広告現場を見たいという思いからイベント制作会社へ入社。ノベルティ事業部に配属され、ペットボトルのおまけの企画や、電力会社や銀行のキャンペーンの企画をすることに。
しかし、なんでこんなにハードな人生を選ぶんだろう・・・と自分でも不思議に思いますが、ここもある意味ブラックでした。夜19時くらいに大手代理店の営業担当から仕事の依頼が届き、21時〜24時くらいまでチーム会議。それから企画書を作成し、翌朝提出して家に帰って寝るだけという毎日。ハードな職場でしたね。広告の勉強したいという思いもありましたけれど、休みもないし残業も多くてさすがに体力的にも厳しい・・・。
しかも30歳手前で、付き合ったばかりの彼氏との時間も大事にしたくて。
扁桃炎の手術と共に会社を辞めることにしました。
ありがたいことにちょうどその頃、前職の先輩や同僚からデザインの仕事を少しずついただいていました。そこで、これを機にフリーのグラフィックデザイナーとして独立することに。
しかし当時の私は営業力がゼロ。コンサルティング会社時代の縁以外にどうやってクライアントを見つけたらいいか分からない。食べてくのもしんどかったので、いろんな会社を見てみようと派遣でも働くことにしました。
昼間は派遣、夜はフリーのデザイナー。二足のわらじ生活です。


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