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初任給10万の修行、2回のうつから逆転!自分で掴んだ幸せな人生 その③

■クーデター、そして二回目のうつ病

しかし実際に派遣として働いてみたところ、派遣の仕事が合わない、合わない(笑)あなたの仕事はここまでですと言われても、それ以上にやりたくなっちゃうんですね。負けず嫌いというか、生意気というか。そのうち派遣チームのお局さんからも目を付けられるようになったりして・・・。
ちょうどその頃、これからはITの時代がくるなって思っていたことと、営業職としての経験もつけたかったこともあり、IT会社に営業として就職することにしました。

飲食店向けのシステムを扱っている会社というのも大きな理由でしたね。
でも実際入社したら「売るシステム」がなかったんです。
「これまで扱ってきたものは古いから、新しいシステムを作って欲しい。」
営業として入社したのにも関わらず、結局企画からやることに。
その上、ITの知識は乏しいので、いきなり新しいシステムの要件定義を書けと言われても全く分からず。リサーチから始めるといった状態。結局、3ヶ月経っても、半年経っても、なかなか新しいシステムが形にならない。
上司はこれまで大手企業で実績を残してきた人でしたが、企画や調整など実際の業務はほとんど1人でした。役職もないのに責任だけ負わされて、色々な部署からの板挟みになるとともに、進まないと社長に怒られる。
そのうち上司に対し、不信感を持つようになりました。

「もしかしたら口だけの人じゃないか・・・?」それは新しく入社した後輩たちも同じ意見だったようでした。突き動かされるように、ついに反乱!後輩と共に、社長に直談判したんです。「上司を辞めさせて欲しい」と。でも、上司は有名会社からヘッドハンティングされていてコネクションも多く持った人物で。最終的に社長は上司を選びました。そうしたらぷつっときちゃって。適応障害による抑うつ状態。人生2回目のうつでした。結局、表向きは責任をとる形でIT会社を退職。うつ病で半年くらいずっと何もやる気が起きない状態でした。当時付き合っていた彼とも別れ、友達との縁も遠のいていきました。地下鉄に落ちたことも正直あります。元々オカン気質なのに、誰からも必要とされていないと思って。あたしの人生カッコ悪いって。

■三軒茶屋の立ち飲み屋での復活

とりあえず環境を変えようと北海道の実家に帰省しました。ちょうど出産のため帰省していた妹と甥っ子のおかげで、どん底だったにも関わらず、1ヶ月後には笑えるように。子供の力ってすごいですね!もう一度ちゃんと生きようと思いました。

そんな中、飲食コンサル時代の先輩から仕事の相談の電話が!
「うん、私の今の居場所は北海道じゃなく、東京だ!帰ろう。」
東京に戻り、飲食店のロゴやチラシを少しずつ、本当に少しずつ制作し始めました。
そんな生活が始まった頃、たまたま自宅近くの立ち飲み屋さんで「かすうどん」を発見。それがすごく美味しくってはまっちゃって!大阪出身の店主の人柄もあって、来るお客さんもみんな面白い人ばっかり!次第に笑顔が増え、毎日のように居座るようになってしまいました。ただしお酒が飲めないので、立ち飲み屋なのにジンジャーエール(笑)
毎日のように顔を合わせる人たちもいて、色々な方から人間関係を学ばせてもらいました。素敵な人がいっぱいいて。2ヶ月くらい経つと、もう鬱だと気づかれないくらい元気になっていたと思います。
仕事も紹介で徐々に頂けるようになっていて。
2011年12月には先輩の誘いで「淡路島カレー」というブランドの立ち上げに関わることに。昼は直営店で立ち上げをやり、夜は飲食店のデザイン業。出店や業態作りや展開についても学ばせて頂き、販促コンサルティングの仕事も増えるようになってきました。

■「3億円あったら何がしたい?」パートナーと運命の出会い

ちょうどその頃、Facebookを始めました。プロフィールに「飲食店を応援しています、イベント販促できます」と書いていたところ、ある方からスカウトが来たのです。「食で地域活性を行なうイベントを手伝って欲しい」と。
その方が、今のパートナーです。
話を聞くとまさに私のやりたいことで。他の仕事も一緒にするようになっていきました。
彼と出会った当時「3億円あったら何がしたい」と毎週のように問われていました。
最初は漠然としか考えられませんでした。
「う〜ん、そうですね・・・1億円は親に、残りは5000万円ずつ妹たちへ、残りは貯金かな」なんて言うのがせいぜいで。その3億円で自分がどう生きたいかまで考えることは出来ませんでした。
しかし、毎日考えました。そして1ヶ月後には「飲食店みたいなみんなが集まる場作りがしたい」と答えました。それが起点となって、なんと2ヶ月後には渋谷神南に物件が見つかり、3ヶ月後には彼と仲間と共にシェアオフィス&イベントスペースを作りました。
「やりたいと思ったことは、実現するんだ・・・」流れに乗るとはこんな感じなんでしょうか。思ったことがすぐに実現し、楽しい毎日となりました。

そして彼と出会って1年後、ゆっくりと「こういう人生にしたい!」というビジョンが固まり始めました。それと同時に女の幸せや結婚観を改めて考えてみた時期でもありました。どういう人と結婚してどういう生き方をしたいか。
思い立ったら即行動の自分。自分と同じ速度感、温度感が一緒の人と一緒に生きていきたいと思ったのです。
例えば「今晩お寿司食べたい!」って思ったらすぐに一緒に行動してくれる人がいい。そう考えた時「あ、隣にいるじゃん!」って。いつしか仕事以外でもパートナーとして必要となっていたんですね。
そして2012年の年末、私は彼にこれからどう生きていきたいかを話しました。
「ピザ食べたいって言ったら、よしナポリにいくか!みたいな感じで自分と同じ速度感の人と一緒に生きていきたい」って伝えたんです。
そうしたら彼はこう言いました。
「同じ事を考えていた。だから僕のお嫁さんになってください」って。
その瞬間涙がぼろっと出て。その場で「はい」ってお返事しました。

■「モデレーター」&「淡路島のオカン」としての人生

今後は「モデレーター」として活躍の場を広げていきたいと考えています。
モデレーターは、パネルディスカッ ションなどの場で、論点をずらさずに進行していく「司会者」であり「調整役」としての役を担います。 登壇者のプレゼンテーションに対して、聴衆の代表として、的確な質問を投げ掛け、発散しがちな 話題を収束させ、最後に論点をまとめて結論させていく仕事です。
イメージはタモリさんや黒柳徹子さん。ゲストの伝えたいことや魅力を引き出し、会場と理解を繋げていく。単なる司会者として決められた台本通りに話すのではなく、質問や共感を通じて、場を繋げていく進行役。
2013年の「みらいの学校」という教育イベントや地域活性イベント、認知症の方のセミナー、婚活パーティなどを経験し、声質や対応力や質問力を色々な方から好評価をいただけたのも大きな力になりました。
目標は「誤解の無い社会」と「正しい発信」。素敵な方や物や想いを一緒に伝えていきたいと思い活動しています。」

「正しい発信」。その1つに日本の良いものを発掘し、日本中や世界中に正しく紹介していきたいという思いがあります。
出身の北海道はもちろんですが、4年前から関わっている兵庫県淡路島もその1つです。食料自給率110%、国産み神話がある日本の原点とも言うべきこの島には、物作りのプロフェッショナルや美味しくて健康的な食、魅力的な景観スポットが数多くあります。そんな島に魅了され、4年前から発信のお手伝いをしてきました。生産者と共に東京で淡路島マルシェを開いたり、飲食店オーナーをお招きしてバスツアーのガイドをやったり。そんな活動を認めていただき、
2015年7月・兵庫県淡路市の地域おこし協力隊にお声がけいただきました。それを機に、念願だった淡路島に移住し、東京と行ったり来たりしながら、淡路島の魅力を正しく発信していく活動を行っています。

大学時代からのあだ名が「オカン」。つまりお節介焼きの気質です(笑)だからこそいろんな方と繋がり、いろんな人を巻込み、形にしていくことができると思っています。淡路の人からも「オカン」と言われるように、楽しく地域のみなさんと交流しながら、地域に仕事を作って行ければいいですね。


■挫折人の名言

「暗いと不満を言うよりも進んで灯りをつけましょう」
文句を言うより愚痴るよりも自分で動けば状況も良くなるんじゃないかなって。
暗いと不満を言うよりもみんなで灯りをつけましょう。
一人で生きているんじゃない。みんなで灯りをつけた方が楽しい。
いろんな人に支えてもらって助けてもらったからこそ大事にしたい言葉です。
「知覚動考(ちかくどうこう)」
これは建築時代の先輩が教えてくれました。
思い立ったら即行動の私。
そんな自分を改め、今はとりあえず動いてみるようになりました。
物事は知って、覚える(インプットしてアウトプット出来るようになる)
そして動いてから考える。
「ともかくうごこう」という読み方もあります。
自分でなるべく見て経験して動くことを大切にしています。


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