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ラーメンハゲVSジュンターロ

先日、ニコニコ漫画で「鍋に弾丸を受けながら」の1話を読んでいたら以下のようなコメントがあった。


「彼か…その巨乳も幻想か」「テキーラは意外と癖がなくて飲み口が優しい」「ヒナミ=ザワ?」「拷問焼きは美味いだろうが 今どき本番信仰とかさあ……情報ばかり食い過ぎ」

私が注目したいのは最後の「情報ばかり食い過ぎ」のところだ。これより前の「どんなものでも本場で食べるのは美味しいからな」というコメントを前提としているコメントだ。どんなものでも本場で食べるものは美味しい、確かにそうだ。

日本は昔から旅行客の移動が盛んだった歴史がある。お伊勢参りを初めとして、江戸時代に頻繁に行われた神社仏閣への参拝がその起源だ。江ノ島は今でも有名な観光地だが、江戸時代の人々にとっても同じだったようだ。Wikipediaによれば、平安時代には空海円仁が、鎌倉時代には良信、一遍が、江戸時代には木喰が……江ノ島で修行をしたらしい。それ故に江ノ島は宗教的にも重要な場所だ。

それになんと言っても大事なのは有名な海産物の飯だろう。宗教が重要だったのは確かに認めうることだが、庶民にとっては飯を食らうことも同程度に、あるいはそれ以上に重要だ。──私も食べたことがある、江ノ島はしらす丼が有名だ。時たましらす以外が入ってることがあるしらす丼に醤油をザーッとかけ、箸でかき込むと美味い。しらす漁は昔から行われてきたというから、江戸時代の人もこれを楽しんだのだろう。

江ノ島のしらす丼が美味いのはわかったが、これは家でしらす丼を作るのとどう違うだろうか?江戸時代の人々にとっては、江ノ島で食べるものは江ノ島のもの以外でしかあり得なかった。当時すでに関東圏の野菜が江戸に送られてくる流通網は成立していたが、まだまだ「食べる場所=食べるものが生まれた場所」といった概念はしっかりしている。だから「江ノ島に行くとしらす丼が食べられる」というのは、紛れもなく真実だったと思われるのだ。

だが今はそうではない。私はしらすを生協で買ってきてそれを家で食べることができる。生協で買ってきたしらすは江ノ島産ではないから微妙に違うだろうが、これはどれだけ味が違うだろうか……。もはや江ノ島で食べるしらすと生協のしらすの違いはイメージでしかない。私たちは本当に情報を食っているのか?

インターネットでは、この男の言葉がよく知られている。ラーメンハゲ、芹沢さんは「ラーメン発見伝」という漫画に登場する敵キャラクターで、革新的なラーメンを提案する主人公に対して、さらに凄いラーメンを出して勝ち誇る、性格は悪いがやり手なラーメン店経営者だ。金を稼ぐために作った「濃口ラーメン」だけが評価されて、本気の食材の端々に至るまでをこだわった「薄口ラーメン」が馬鹿にされた過去を持ち、客を信じられなくなった悲しい男だ。この画像の発言はそんな文脈がある。

話を「鍋に弾丸を受けながら」のコメント欄の方に戻そう。そもそも「鍋に弾丸を受けながら」がなんなのかを説明しよう。漫画の喩えを漫画で行なっているややこしい議論展開だ。


青木潤太郎(原作)と森山慎(作画)による日本のグルメ漫画だ。登場人物が全員女性という奇妙な設定、「危険なところにある飯は美味い」といった魅力的なテーマ、"良い"美少女の作画などから多くの人に評価されている。釣りのためあちこちに飛んでいく原作の青木氏(作中ではジュンタロー、ジュン、ジュンターロなどと呼ばれる)が、実際に経験したことをそのまま漫画として描く。曰く、「安全な場所は70点から90点のものが食える」だが「危険な場所では20点か5万点になる」!だそうだ。


なるほど。「治安の悪い場所の料理は美味い」。「本場で食べるものは美味い」より範囲が狭くてよりラジカルな意見だ。でも曖昧な言い方になるがロマンを刺激される。未知の場所にあるものに期待をかけるのは先ほどの旅行の話も同じだ。そんなテーマを持つ作品に「情報ばかり食い過ぎ」とはずいぶん根本から切っていくものだ。

うーん、どちらも正しい。危険なところで食べようが、安全なところで食べようが、同じものは同じだ。その点では「情報ばかり食い過ぎ」というのも言いえて妙だ。事実、ジュンターロもドバイの安全な街で美味しいハルヴァを食べている。「危険なところのものが美味い」のならば、「危険ではないところのものが美味くはない」となるのは誤謬だろうが、このハルヴァをジュンターロは小説で見た夢のお菓子にも似る、とまで表現している。危険なところで食べるものが「実際に」美味いのもある程度事実ではある。正確には「本場で」だが、ブラジル編で登場した果物はもいだ瞬間に劣化していくため、未熟なものを国外に輸出するしかない。新鮮で美味しいものを食べられるのは原産地の特権だ。それに、感情的な要素もあるんだろう。

危険な場所で食べるものが美味いのは、それが情報を介さないでものを食べる行為だから……と言えそうな気もしてきた。ラーメンハゲが「顧客は情報を通して味を最大化する」と言っているのと真逆のことだ。安全な場所では情報の獲得に注力せざるを得ない。スーパーで買うときは食料品表示を、ラーメン店では魅力的な広告を、SNSは誰かの消費傾向をまざまざと見せつける。そうして得られるのが「情報による美味しさ」だ。これも一つのあり方なので、私はそれを否定しない。だが「危険な場所で食べる」という行為は、常に素朴な情報しか提供されない場所に身を投げ込む。食品表示は国によっては読めないだろう。そもそも自分が知っている言語なのかはわからない。広告の意図を読み取るのも苦労するだろう。もしくは広告のそのものがない。SNSは日本人を対象にしたものを中心に見るだろう。その限りにおいて、情報が美味しさを制限することから逃れられる。つまり危険なところで飯を食べると、常に新しい何かと『直面する』。

などと思いました。


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