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役割語の将来

【2022.6.24追記】私のような者でも「言語警察」呼ばわりされた経験があり。もし、そういうことがあるなら少しは嬉しいかな? などと思っていたんですが、いざそういう場面を経験してみると、とても悔しく悲しく、そうではないことをわかってほしい! と強く思いました。私は、(言葉だけで構成された世界の内側で、言葉について何か言ってるだけとしか思えない)サピア・ウォーフの仮説を、当たり前過ぎる眉唾だと思っている者ですが。
「コモンセンスはコトバでつくられる」
ぐらいは、まあ言って良いと思います。だから、調整というかアップデートというか理性的制御が必要になる。なぜなら、言葉で構築された世界は例外なく「キャッシュ」の暫定表示に過ぎないのですから。
ちなみに私は、「だぜ」も「だわ」も使ったことがない。「ちょっぴり」「べっぴん」などと同様、生理的にダメなんですよ。
実例に即した「言葉が遅れる」話はこちら↓


書き言葉における「役割語」の功罪をチラチラと、少なくともだいたい日に1回程度は思う。

先日、13日(土)の朝日新聞朝刊「フォーラム」欄に、『女言葉だわ 男言葉だぜ』のタイトル下、3本の記事が並んだ。論じられていたのは、役割語の中でも特に、タイトルが示す通りジェンダー表現について。

語尾が「〜だわ」なら話者は女性、「〜だぜ」なら男性と見当がつく。これが、差別や社会的役割の固定化と関係あることは間違いないが、使わない場合、「彼/彼女」のように性別のわかる主語が必要になる場合もあったりする。困ったこっちゃ頭痛いなと、まさに私が感じていた部分について、文芸翻訳者 越前敏弥さんは、

英語の場合、セリフの中に「she said(彼女は言った)」や「he said(彼は言った)」がやたらと入ります(中略)でも、日本語で同じことをやったらややうるさいし、そこまで英語の論理に引っ張られるのもどうか。

と仰っていた。

私はと言えば、「英語の論理に引っ張られる」訳でもなく、他の異言語からの干渉を受ける訳でもないつもりで、無自覚にただ何となく翻訳みたいな日本(語)文を書き散らかしていたり_これはこれで何かの糸口に違いないが、今やり出すととっ散らかり過ぎるのでまたの機会に_。

日本語の文章で、しばしば主語が省略されるのは、小説『雪国』の冒頭はじめ夙に有名な現象(余談1)。でありつつ、欧米流の近代的民主主義との相性はあまりよろしくない気がする。と、主語を省略しつつ。例えば、誰かが何かの権利を論理的に主張する際、主語の省略はあまり得策とは言えない。ジェンダーあるいは生物学的な分類に限らない広義の「性別」を明示するかどうかにについても、曖昧なままだと不利な場合があるなどなど、バクッと誰にとっても不便で非効率、更に何だか釈然としない部分が多過ぎて信用ならない筈だ。少なくとも、学校で配られる保護者宛ての連絡プリントや法律の条文などにおいては、主語の省略は避けるべきだろう。

少し枠を拡げて「役割語」を探してみると、やはりそれらも、文芸含む芸能(または芸術)やエンタメコンテンツの中に多く見出すことができる。当たり前だ。役割語は物語の進行をスムースにし、ト書きつーか野暮臭くはあるが欠かせない説明を最小限に抑えてくれるのだから(余談2)。

私は、役割語を断罪しようとも、擁護しようとも思わない。それは伝統芸能における「カタ」のようなもの。根源は同じ力であっても、個々の発現形態は様々であり、「それ」自体は良くも悪くもない。言ってみりゃタロットリーディングにおけるアップライトとリバースみたいなもん(余談3)。

「わしゃあのう」と話しはじめた登場人物がいたら、鑑賞者は「おじいさんだな」と見当がつくし、ほとんどの場合それは正解だ。コトバで何かを伝えたい表現者にとって、役割語は頼みの綱であり続けている。

その「役割語」が、今、見直しを迫られている。

今日は、Two eddged swardな「役割語」について書いてみました。

余談が無駄に長くなってしまったので、そっちのみ目次を設定。


(2021.11.16)





(余談1)日本語に主語は要らない(?)

『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』なるほど、川端康成『雪国』冒頭の一文には主語がない。「国境」は何と読むのだろう。私は「こっきょう」よりも「くにざかい」の方が雰囲気出るなあと思っているんだけど、やっぱりどこかのネジが緩いんだろうか。ところで、アカデミズムの文脈で「主語不要論」を主張したのは三上章という学者だが、現在の教育が国語に限らず「誰が」をはっきり主張する方向に傾いていることを考えると、大きな捻じれを感じる。


(余談2)作品中の役割語の役割

作者が提示する世界の中で、その世界の構成要素としての登場人物が用いる不自然な言い回しの多くがその作品中における「役割語」と思えば、だいたいはOKだろう。アニメや人形劇などの場合、生身の人間が直接演じる実写版ドラマと違い、物語の展開上「誰が」を過剰に演出する必要がある。その為、アニメの声優さんが発する言葉の抑揚は大袈裟になりがちであり、それはそれで必要なものだ。アニメの中の少女が発する台詞は過剰に少女っぽく、少年の台詞は過剰に少年っぽく、上司の台詞は過剰に上司っぽく、部下の台詞は過剰に部下っぽい。そうならざるを得ない事情は充分理解しているつもり。ただし、アニメの音声トラックをそのまま文字に起こしたような会話文を、私は生理的に受け付けない。また、それを無自覚に再生産した全ての表現が悲しくてやり切れない。悪気のかけらもないその行為が、差別や役割の固定化に貢献していることに、悪気のない本人がイノセント=無自覚であることが更に悲しい。


(余談3)タロットリーディングにおける正位置/逆位置

正逆をとらない読み方もあるし、逆位置が必ずしも正位置の反対の意味になるとも限らない。

私は、魔術(師)系のタロットは正逆をとらないものと思っていた。が、世界で一番売れている(今でもそうなのかな?知らない!)ライダー=ウェイト版デッキの作者アーサー・エドワード・ウェイト氏が近代魔術結社の源流「黄金の夜明け団」のメンバーだった事実を、どう理解すれば良いのか。

ライダー=ウェイト版デッキ発売に際してのマーケティング戦略は、それまでのタロットカードの売り方から大きく飛躍したものだったようだ。

メインターゲットは、当時の若いメイドさんたち。絵柄から、価格設定から、何から何まで彼女たちを意識したものだったらしい。「シャッフル」のやり方についても、手が小さく、カードの束を手に持って上手く切り交ぜることができないかも知れない彼女らの為に、テーブルの上に広げてわさわさとかき混ぜるという現在のスタンダードとも言える方法が提案された。手の中に束ねて切り交ぜたのでは、上下はひっくり返らない。つまり、正逆に意味を見出す余地はなかった。

という話を某占術師の先輩ソロールからお聞きする機会があった。


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