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言語圏を超える仕事

【2022.6.29追記】ここで言う「言語圏」の「言語」は、まず日本語、英語、中国語などを指すが、更にそれぞれの下位に重層的に拡がる方言をも指す。ここで言う方言は、地域方言だけでなく、趣味趣向の世界まで含めた広義のいわゆる社会方言をも指す。
大抵の人は、同時に複数の言語圏に棲息しているが、個々の言語圏が抱える問題やその限界を正確に捉えることは、その言語圏の外に出ない限り難しい。
さて、パソコンやスマホなど情報関連デバイスのスペックが上がり、通信環境やアプリが改善されるにつれ、よろず通信速度や処理速度が上がる一方で、人間同士のやりとりについて、同様の変化を期待するのは難しく。むしろ、前者の改善と関係あるのかないのか、人間同士のやりとりにおいては、極端な根気の低下っぷりを示す個体が増えているように思える。客観的で信用するに足るエビデンスたらは持たないが、社会的にNGである筈のブチ切れを「美学」として許容するような、ある種の文化的伝統の断片はあちこちで実際に確認することができるetc.

 今日は、第166回芥川賞受賞作 砂川文次『ブラックボックス』を読んで思い出したこと、新たにチラと思ったことなどを。

 楽しい話ではなかった。ディスコミュニケーションとそれに続く破綻の話なんだから、当然と言えば当然。だが私は、見たくなかったものを見なかったことにしてのんびり煎茶か何かいただいているところ、唐突に見たくなかったそれを差し出されてしまいましたみたいな、ある種清々しい不快感を覚えたのであり_(0)参照_。

 サクマは、わからない言葉を喋る人間や話が通じそうにない相手とのコミュニケーションを、最初からまたは人生のある時期から放棄している。そして、そんな相手が自分にもたらす不快感が許容範囲を超えると感情を制御できなくなってブチ切れ、暴力を振るってしまう。物語を動かすのは、主人公サクマの、この、アキラメとヤラカシ。

 「ヤラカシ」の前には(時間差はごく僅かだが)ブチ切れがある。ブチ切れの前には(ある程度の時間をおいて)ディスコミュニケーションによる苛立ちがある。「アキラメ」の前にも、苛立ちに似たしかしポジティブな何か、承認欲求の高まりや伝えたい衝動みたいなものがあったりするのだろうか。わからない。

 ともかくそこらへんに、言語圏を超えて_(1)参照_他人のコミュニケーションたらをヘルプする仕事があるように思う。いや、思うだけじゃなく実際にそこにある。

 通訳の仕事、翻訳の仕事、みんなそうだが、コピーライターだって、ざっくりクライアント様の言いたいことを代弁しているのであり。広告主-仮想ターゲット≒受け手-コピーライターの三者はそれぞれ別の言語圏に属しながら(実際には同時に複数の言語圏に属していて、一部被ったりもしている訳ですが)利害のベクトルがてんでにズレながら取り敢えず一致している。ある案件が「三方良し」で収束したらハッピーだし、「三すくみ」で終わったらかなり悲しい。だが、そのような両極端はどちらかと言うと珍しいのであり。

 たいがいはそんな良くはないがそんな酷くもない、この部分は予想以上だったけどこの部分はあまり……というか、実際データを見せられてもわからない。幸福度を数値化したものを見せられても、それがどういう基準で算出されたのか気になるばかりで、決して腹落ちすることはないように。

 ブチ切れやすい人には_(2)参照_間違っても向かない、なかなかに根気のいる仕事だと思います。


(0)『ブラックボックス』が可視化するもの

 第166回芥川賞受賞作『ブラックボックス』の主人公サクマは、例えばビジネス界隈などで用いられるカタカナ語が苦手で、そのようなワードを多用しがちな人間が何を喋っているのかサッパリわからなかったりする。ややこしい言い回しで込み入った内容を相手に伝える、といったこともやらない。ざっくり言って、言語を駆使して考えるタイプではない。作者は、そんな主人公の内面の思念の移ろいを言語で記述するという、明らかな無理ゲーに挑戦している。

 TVドラマに対する、視聴者からツッコミ例を想像してみる。

「この人、そういうブランドの服着るかな?」

「インテリアの趣味、なんか違うくない?」

「こいつぜってーこんな店行かねーし、そんな本も読まねーし」

 こういうのは無責任な立場からいくらでも言える「あるある」に過ぎないが、その一つひとつが、視聴者が感じるリアリティや番組の視聴率を下げる要素であることは間違いない。

 『ブラックボックス』の場合なら、

「この人、そんなふうに自分の心理とか説明できないでしょ」

みたいなツッコミを入れることも可能。

 だが、そういう話じゃない。

 上記のようなツッコミを防ぐテクニカルなやり方はいくらでもあるだろう(例えば、サクマ登場シーンの一人称描写は彼の振舞いと情景描写に限り、内面的な思念の移ろいについては、友人設定の語り部でも立てて「その時サクマは……だったんじゃないかと俺は思う」とでも言わせれば、ツッコミを入れる余地は消える)。

 可視化されるのは要するに、その世界を記述するには、その世界から出るしかないということ。更に、何よりも、「指すもの」と「指されるもの」の関係に含まれる恣意性及び伝わる保証のなさである。


(1)「方言」と「異言語」の概念を拡げてみると

 「方言」と言えば、関西弁、関東弁、東北弁などの「地域方言」を指す場合がほとんどだと思う。例えば、岡山の人に「おえんぞ」と言われた場合、それは「背負えないよ」の意味ではなかったりするあれ。一方で、業界用語がいっぱい出てくる会話、職人言葉(江戸落語でしか知らないけど)、商人言葉(上方落語でしか知らないけど)、職業以外にも所得、地位、年齢、性別など、様々な社会的位相を持つ特定クラスタごとの「社会方言」がある。

 「異言語」と言えば、まずは自分にとっての母語でない言語。持って回った言い方をしてしまいましたが、要するに外国語。SF映画で宇宙人が喋っている言葉やなんかも、これの一種だろう。

 これらの「方言」や「異言語」は、それぞれ独自の言語圏を形成しているが、それらの輪郭にはグラデーションがあるし、すべての話者は複数の言語圏に所属していると言うより言語圏をまたいで存在している。

 しかも、それぞれの言語圏はいくらでも微積分/記述/編集/再定義できる。あるいはできない。やったとしても、言葉は変わるので、すべては常に暫定の指標でしかない。

 関西弁と呼ばれる地域方言は、更に大阪弁とナントカ弁と……と細分化できるが、その中の一つでしかない大阪弁も、大阪市内、南大阪、北摂など地域ごとに違いが大きい。大阪市内にエリアを限っても、キタとミナミでは微妙に違う。そして、話を「地域方言」に限っても、多くの人は複数の言語圏をまたいで言語活動たらを行っている場合が多い。家庭の日常/勤務先/出張時/帰省時……。

 社会方言に至っては、いくらでも新たに線を引き直すことができるし、また、そうしないと説明しようのない現象が日々起こっている。

 「異言語」についてはどうか。外国語やエスペラント語のような人工言語、宇宙人が喋る言語……各種「プログラム言語」や「暗号」といったふうにどんどん拡げてみる。プログラム言語とは言えないようですが、webサイトで使われるhtmlなんかもある。

 ある時(仕事関係で)表示崩れを発見したのでデザイナーに報告すると、彼は早速ブラウザを「ソース表示」に切り替え、チェックしはじめ、

「あちゃーこらいかんわ」

と言って、ちょちょいと手を動かし、ものの3分ほどで修復してしまった。

 誤字脱字でも直すように。いや、実際に「そうだった」んだろう。


(2)東亜的「ブチ切れ」美学について

 キレやすい若者に関連して貧困問題や教育格差の問題を論じたり、キレやすい高齢者に関連して認知症など健康の問題を論じることもできそうだが、ここでは、主にエンタメコンテンツの影響を受けて育まれたと思われる美意識の話。

 あるいは失礼な言い方かも知れない、と卑怯にも予め断ってから書くんですが、「ブチ切れている人」の振る舞いがあまりに類型的というか、例えば発する「決めゼリフ」も、どこかで聞いたような気がすることが多かったりする。私は、以前からそのことを不思議に思っていた。

 私なりの仮説は二つあって、

1)穏やかに何かを楽しんでいる時、人の感性の在りようは多様だが、プリミティブな情動が極度に高まる瞬間においては、差異は極端に小さくなる。

2)「ブチ切れている人」は、根深い被催眠または自分なりの「ブチ切れ」美学を持っており、その形成に影響を与えたヒーロー(俳優だったり、アニメの主人公だったりさまざま)のお気に入りのセリフをそのままなぞりがち。

 そして、昭和期の日本映画やもっと広く東アジアの映画には、社会的にNGである「ブチ切れ」を男の美学として肯定しているものが多いように感じる。

 具体例を挙げるのは少し迷うところではあるんですが、自分も好きだということで一つだけ、香港時代のブルース・リーを挙げておきたい。

 我慢に我慢を重ねた末に我慢の限界を超えてついに爆発する。そういう描き方は、お馴染みのもの。私がおそろしいと思うのは、それを「美しい」と感じ、無意識裡に(俳優が役柄として演じている人物と)同化してしまう人たちが、年齢に関係なく今も一定数いるということだ。


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