カットアップと日本語
【2020.6.26追記】生成文法 vs 生成意味論。などと書きはじめてみたものの、いきなり後が続かない。
ざっくり言うと、コトバで大切なのは、果たして「型」か「意味」か。……正直、どっちでも良いように感じる。私が、それ以上に大切だと思うのは、「型form」も「意味meaning」も「感情passion」によって生み出されるということ。
カットアップの手法は、そんなほとばしる感情のみずみずしさを強調すると考えられる。ただし、バロウズが狙ったと思われるのは、偶然性の力を借りながら筆者自身思いもよらなかった新しい文章を紡ぐこと。言ってみれば「チャンスオペレーションの文芸版」だから、ほとばしり出る感情の鮮度を高める効果は、むしろ副次的なものと考えた方が良さそう_筆者自身狙ってやった訳でもないのに、結果的にそうなってしまうところも、まさに「チャンスオペレーション」!_。
偶然性を受け入れかつ浅ましく偶然性に頼り過ぎない、料理人の鮮やかな包丁さばきのようなカットアップは、果たして可能だろうか。実は、タイプしながらそんなことを考えていたのです。
一度書かれた文章をバラバラに切り刻んでシャッフルした後、再びつないで元のものとは違った文を生成する「カットアップ_(0)参照_」という手法がある。
私が初めて接した_と言っても、もちろん翻訳ですが_カットアップ小説はウイリアム・バロウズの『裸のランチ』だったが、その衝撃たるや大変なもので、世の中にこんな面白い_より正確に言うならオモロイ_小説があったのか!と、喘息の発作が起きるかと心配になるほど悶絶寸前まで抱腹絶倒したことを記憶している。
ンな感じで一発で大好きになったんですが、一方で、もしかして自分のやっていることは、熱心なバロウズ読みの先輩方に対して無茶苦茶失礼なことなんやないか。などと、軽い罪悪感に悩まされもした。何と言うか、今も「リスペクト感度」の低い人には、なるべくなら関わりたくないと思っている自分らしいっちゃ自分らしい馬鹿っぷりだ。
似たようなことは時々起こる。山下洋輔3の演奏に初めて接した時も、やはり笑い転げた。笑い転げながら、自分のやっていることは、ジャズファンの先輩方に対して以下同文。
最近_割と、を付すべきやった_の例では、何と言ってもDr.ハインリッヒ!
「何て美しい漫才なんだ!」
と、私は笑うことすら忘れてしまい。これはもう信徒≒ファンの皆さんに対する以下同文通り越し、彩さん幸さんに対して失礼ちゃうの。と思いつつ、己が天邪鬼っぷりをそこそこクールに自覚しもした。
振り返りはさておきカットアップの話。バロウズなどアメリカの作家が英文のカットアップを試みる場合と、私が自分のコピーをカットアップしたら間違いなく仕事来なくなるだろうけど、自分が日本語で書いた何らかの文章をカットアップする場合では、いろいろ違う点があり過ぎる_(0)参照_。てか、私が読んだ「カットアップ小説」は英文をカットアップ/再構成したものを更に日本語に翻訳したもので。何をどう補正するべきか、補正なんかせずに笑い転げているべきか、アカデミックでもアーティスティックでもない悩みどころが案外重要だったりすることもある。
少し具体的実践的な話をすると、カットアップの手法で一旦一応できあがった日本語文を切り刻もうとする際、まず「どこで切るか」が問題になる。手書きの原稿や紙にプリントアウトした原稿の場合、目を瞑ってエイヤでカットすると、ちょうど文字の途中で切れてしまって判読できない場合がでてくるしこれがまた面白いんやけど、話を無駄にややこしくしないよう今は「禁じ手」とする。では、切ってもOKな場所を、「文字」の切れ目にするか「単語」のそれにするか「文節」にするか。「わたしは」をカットアップする場合、文字単位の切れ目を認めるとするなら「わ/た/し/は」のどこで切っても良いことになり、単語単位なら「わたし/は」の1箇所のみOK。文節単位でというルールを設定したなら「わたしは」は1文節だから途中で切ってはいけないということになる。
文節単位で切ろうとすると、日本語の場合まあ、そうなる訳ですが。英文の文節て何や。実は私もよくわからないので一旦この話はおしまい。
英語にはあって日本語にはない「わかち書き」という表記法がある。英語の場合「I am a Captain.」のように単語と単語の間にスペースが入るが、日本語では「私はキャプテンです」とスペースはどこにも入らない。「私は、キャプテンです。」のように、途中で「、」を打ったり、後続の文と区切る意味で「。」を打ったりすることはできるが、どこで打たなければならないという厳密なルールは、実はなかったりする。このあたり日本語学習者にとってさぞ難儀だろうなと思うポイントの一つな訳ですが、単語と単語の間に予めスペースが入っている英文と違い、日本語文をカットアップする場合、「単語単位」や「文節単位」でしか切ってはいけないというルールを設定したなら、切る前にまずは文章を読み、ルールに照らして「切っても良い」場所を確認してからでないとできなかったりする。
表記法のほか、英語と日本語の文法構造的な違いも馬鹿にならない。例えば、日本語にあって英語にない助詞、中でも「格助詞」や「取り立て助詞」と呼ばれる品詞をどう扱うか_(1)参照_。
I am a Captain./私はキャプテンです_「は」が取り立て助詞_
I call him Captain./私は彼をキャプテンと呼ぶ_「を」「と」が格助詞_
などの例を見ればおわかりいただけると思う。
で、英語文を「スペース」で切ってみた場合と、日本語文を「文節」単位で切ってみた場合で、カットアップの効果に大きな差が生まれることになる。
I/him/call/Captain
では、かなり漂白されてしまっている元の文の論理性/意味性が、
私は彼を/呼ぶ/キャプテンと
では、ほとんどまったく損なわれていない。どころか、「倒置法」を用いた文として認められており、「非文」ですらないようだ。このあたりの事情から、私は日本語を「悪魔の言語_(2)参照_」だと思っていた。
話は飛ぶが、バロウズと言えば言語ウイルス説_詳細書かないので気になる方は調べてみてください_。私も、バロウズ先生とはたぶんまったく別の理由で、言語≒ウイルスだと考えている_(3)参照_。
言葉は、実体のあるものを「指す」ことができる。しかし、言葉によって「指される」ものにいつも実体があるとは限らない。
早い話アレです。生命体なのか非生命体なのかよくわからないまたは意見がわかれるらしいウイルスと言語は似ている。と思う。
(0)カットアップはどんな効果をもたらすか
根本的に/ある程度は、と意見のわかれる部分はあるにせよ、カットアップによって意味性が壊れることに異論のある方は少ないだろう。
だが、抒情性は、カットアップされた後もほぼそのままの状態でそこにある。いや、むしろ、カットアップ後の方が鮮度を増していると感じることもしばしば。このあたり、料理人が包丁を入れた刺身のよう。
ちなみに、私にとってカットアップと言えばウィリアム・バロウズですが、ラテンアメリカ文学のフリオ・コルタサルもやってたそうです。
(1)膠着語と北島三郎はカットアップに強い説
主語や目的語となる名詞が、格助詞など他の成分と結びつくことで、それぞれの組み合わせごとに意味を変える「膠着語」の場合、語順が変わってもさほど意味性が損なわることはない。北島三郎というシンガーの歌唱も同様。
私は、北島三郎氏の歌う『まつり』という曲を、アナログディレイによってズタズタに切り刻んでみたことがある。しかし、切り刻まれた音の断片の一つひとつは、北島三郎以外の何者でもなく。
敗北感いっぱいのライブだった。
リカオくん、俺ほんまは泣きたかったんや。
(2)なぜ、バスク語は「悪魔の言語」なのか
ヨーロッパのマイナー言語の一つであるバスク語は、昔から「悪魔の言語」と呼ばれているらしいと聞いた瞬間、「そうか!」と思った。カットアップによって壊れにくい言語の力は確かに悪魔的とも言える。バスク語は、文法構造的に日本語や韓国朝鮮語と同じ「膠着語」に分類されるので、また上記北島三郎ヴォーカリゼーションのカットアップ耐性なども参照しつつ、私の頭の中では「膠着語=悪魔の言語」という等式が成立してしまった。
あとで聞いたところによると、
「あ、あれはね、習得が難しいからですよ。しかもマイナー言語だから、苦労して習得しても使える場面は限られている」
とのこと。
(3)私の言語ウイルス説
ウイルスが生命体と非生命の中間的な存在であるのにも似て、言語が指すシニフィエには実体を伴うものと伴わないものがある。もう少し細かく言うと、シニフィアンとしての言語には、実体のあるシニフィエを指すものと、シニフィエなきシニフィアンもしくは実体のないシニフィエを指すレイヤー違いのシニフィアンが存在し、それがどの階層のものかを認識できていないと混乱を招くことがある。
私が初めて読んだバロウズ。第一印象は「抱腹絶倒の非文小説」というものでした。「非文」なんて単語未だ知らなかったけど。
「何て美しい漫才なんだ!」と、笑うことも忘れて見入ってしまい聴き惚れてしまったネタ。オチの部分のみクスっと。