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言語以前/言語/言語以後

※表題中の「/」は、切断の結果としての断絶を指すと同時にグラデーションを指す記号でもあります。

 グラデーション感度の低い人が苦手だ。とか言うと差別発言になるんだろうか。白黒ハッキリさせなアカン場面て、そんなあるか? とか言うと決断力ない人みたい。だが、やっぱり苦手だ。グラデーションがわからない、見たくない、本当は見えるけど(見)なかったことにしよう……。何訳わからんことを? そう、それです。私はザックリ言語を訳わからんものと捉えている。例えば、バロウズ先生が仰ったのとは違う意味でウイルス的でもあって_0参照_、意外なブレイクスルーをもたらしてくれる反面、いろんな面倒や美しくない光景を引き起こす。
 例えば、日本語教育の現場。と言うより、私が受講した420時間の日本語教師養成講座_1参照_、夏祭や花火大会_2参照_なんかで耳に入ってきた不平不満または単なる罵詈雑言からもそのへんの特徴は見て取れるし、処方箋としては、やはりグラデーション感度を上げんとしゃーない気がしています。


0:(生命体(言語)非生命体)

 ウイルス同様、言語は生命体なのかそうでないかわからない。はあ? 説明するのは難しいんですが、私は、何でかそんな感じがする。
「言語はコミュニケーションの為のツールだから……」
といった発言を聞くにつけ、何でそんな当たり前みたいに言えるのか、私には正直わからない。言語からすれば、私たち人間の方こそツールだったりしないのか?

1:(文化(言語)非文化)

 私が受講した420時間の日本語教師養成講座の中で、印象に残っている講師先生の話は多いんですが、関連するのを二つばかり。
 
 日本語を教えるということは、日本文化を教えること(F先生):
 私としては全面的に同意なんですが、
「それは言い過ぎやろ」
「単語暗記したり文法ちょっとやったぐらいで日本文化がわかるか!」
などと、何人かの受講生が小声で毒づいた。もちろん彼らは、挙手して質問したり、自分の意見を述べたりといったことはしなかった。

 ……日本文化の話《だけ》で終わる授業はしないでください(M先生):
 
中上級の学習者を対象とした教室活動? 少人数のグループに分かれて順番に模擬授業を行い、評価し合うというカリキュラムの中で、教科書は使わず自由にテーマを設定してやってみましょうというお題があり。
「ただし……」
と補足的に出た言葉。に対して
「日本文化を教えることは日本語を教えることとちゃうの?」
「講師によって考え方は違うにしても……もうちょっと何とかしてくれよ」
などの声が聞こえたが、どれもこれも小声で。まともには質問も反論も出なかった。

2:(お神楽保存会(コミュニティ)お祭実行委員会)

 ある地域に伝わる伝統文化、伝統行事含む(※当然お金が絡む)イベントなどなど、コミュニティの維持・発展/コミュニティづくりについて話し合う場合、《伝承》や《興行》の問題は無視できない。
 しかし、この夏、関西で行われたいくつかの祭や花火大会で、私は次のような文句を多く耳にした。
「祭見んのになんで席料取られなアカンのや」
「地元の人間がタダで見れない花火大会なんかやらなくていい」

 気持わからなくはないし、《無料が当たり前》の時代が長すぎたので仕方ないのかも知れないが、このへん、今までのやり方ではもう無理な訳で。
初詣に行って、
「賽銭はやらんが俺の願いは叶えろ」
と言うのにも近い気もする。

 著作権_JASRACけしからん! という話ではなく_と図書館(デジタルアーカイブ含む)についても、つらつら思うとこあったんですが、それはまたの機会に。


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