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「価値の遠近法」

今日、とても感銘を受けた言葉がありました。それが、

「価値の遠近法」

です。うちの会社では、いつも会社の偉い人が朝に一言述べる風習があるのですが、そこで今日、偉いデザイナーの人が発した言葉でした。少し引用すると、

普通、絵を描く時、遠くにある物は小さく、そして近くにある物は大きく描きます。
私たちはこれを遠近法と呼びます。
しかし、不思議なことに、価値の遠近法は正反対に作用するようです。
自分の周辺にあるものは小さく考えて、まだ持っていない遠くにあるものに対しては大きな価値があると錯覚したりします。
このような価値の遠近法は、身近にいる人々の大切さと自分が持っているものに対する感謝を忘れさせると思います。

 まとめると、遠近法で絵を描くときは、近くのものを大きく描き、遠くのものを小さく描くというのが定石となっています。
 しかし、「価値の遠近法」に関しては、近くにあればあるほど「小さく」なり、遠くにあるほど「大きく」なるわけです。

 いやはや、これには震えましたね。なんだか、こうゆう考え方には、ここにはすごい現代の閉そく感を打破するヒントがあるんじゃないかなと思ったわけです。


自信を失った人類

 近年は「自己肯定感低め」とか、「不確実性の世界」という言葉がたくさん生まれています。前者は言わずもがなですが、後者はこれまで人類がドンドン頑張ればどこまでも「進歩」できると信じていたのに、その「進歩」が行き止まりを迎え、自信を失った人類の本音が出ている言葉のように思えます。

 近代以降、人類は「進歩的な世界」というユートピアを崇拝しまくっていたわけです。その結果、「民主主義」といった統治技術や、蒸気機関車をはじめとする生産技術が飛躍的に発展しました。その結果、出生率は飛躍的ひ伸び、それなりに豊かな生活を享受できています(発展途上国は除く)。
 こうした状態のなかでは、人類は自信満々にとにかく前を向いてすすんでいくだけでした。

 しかし、あまりにも進歩し続けた結果、昔は人類は、村の人たちと協力しないと生きていけなかったのに、一人でも生きていけるようになってしまいました。そして逆に、「孤独感」が人々にまん延するようになりました。そんな事態を反映する事例として、自信のない高学歴なエリートたちが、ようわからん宗教に入信して地下鉄サリン事件を引き起こしたものが挙げられるでしょう。

その他にも、「孤独感」ゆえに小学生程度の少年少女が自殺をするという事態も発生するようになりました。昔は自殺は大人がするものと考えられていたのに。

その他にも、技術の進歩の結果、原発事故などとよばれるリスクも人類は引き受けることになります。ぞくにいう「リスク社会」というやつです。

これらの事例がメディアにも取り上げられたりしていること自体が、人類がこれまでの進歩に対して自信を失い始めている兆候ともいえるでしょう。

「価値の遠近法」

こうした、事態が生じた要因には「価値の遠近法」という思考法が人類に長い歴史の中で植え付けられてきたからなんじゃないかなと思うわけです。
 進歩というのは、これまでも見たこともない素晴らしい世界を作り上げようとすることです。「遠く」にあると考えられる世界に「価値」を置くような考え方、つまり「価値の遠近法」的な考え方と言えるでしょう。その結果、確かに進歩はしたけど世界全体で見たときに人類が「幸福」になったとは断言できないような状態です。

 

まとめ

こうしたなかで、「価値の遠近法」という考え方自体を疑うというのは、結構有効な考えかたなんじゃないかなと。もっと、身近にある人たちに価値を置いてみる必要性があるのかなと。

「ビジョン」とか「将来の夢」といった「遠い」ものに価値を置くのではなく、もっと身近にな事柄に価値を置く事も重要なんじゃないかなと。

「成長したいとか進歩したい!!」というのは素晴らしいことだと思ういます。でも、「成長」や「進歩」のような「価値の遠近法」的思考によって置き去りにされた身近な「価値」というものは必ず出てくると思います。そうしたものに目を向けることによって、もっと人類に「進歩」ではなく「可能性」をもたらしてくれるのではないかなと思った次第でございますよと。

余談ですが、このデザイナーの方はうちの会社に5億皿分の100円寿司のお金をもたらしたほどの敏腕デザイナーです。言うことがちげえ....


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