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芸術作品の「真正性」

昨日はとある研究会に参加して息をひそめながら勉強になったことをメモしていく。「芸術作品」の「真正性」に関連する議論に関して興味がそそられたので書く。
 資本主義における「真正性」の逆説というのが芸術という領域に存在していた。そうしたことを歴史を紐解くことで明らかにしたものだ。

芸術作品の「真正性」
 まず中世の芸術作品はいかに宗教的真理に肉薄しているかが重要であった。そのため、絵画の「外在的価値」に重心が置かれていた。つまり、宗教的な規則に則った、キリスト教にまつわる「絵」を描けばよかった。
そして、芸術作品は常に教会のなかにあり、「移動」することはなく固定的な存在であった。そのため書き手の「価値」はそこまで全面化しなかった。
 しかし、近代(16世紀から17世紀にかけて)になると芸術作品は売買対象になっていく。だが、売買対象になるからといって俗化が進み陳腐になっていくというわけではない。むしろ、売買対象になることで複製品が出回るリスクも大きくなり、「本物」であることが重視されるのであった。お宝鑑定団などの番組を想像してもらうと分かりやすいのではないだろうか。
 そこで「本物」であることの基準として作者の「無意識な癖」に着目されるようになったのだ。つまり作者の意図から離れた「偶然性」という「再現不可能」なものが基準に持ち出されるようになるのである。
 さらに発展すると、こうした基準は作者が意図的に行ったものであるとすることで「偉大な作家」としての価値が高まっていくことになる。
 また、作品は売買の過程で「移動」するようになる。そして、中世頃の芸術作品に特有の「場所」との結びつきはなくなってゆき、「場所」から切り離されていくようになる。
 こうしたなかで、「作者」や「芸術作品」外部から解釈され作り上げられていくようになるのである。そして、「本物」が内在的価値を魅力的なものに死ていく。そして保護機能がますます作品にたいしてきょうかするなかで、「魅力があるから保護する」のではなく「保護するから魅力がある」という転倒したロジックが出来上がるようになるのであった。

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