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しきから聞いた話 141 いい言葉

「いい言葉」

 川沿いの道を歩いていて、小学4、5年生とおぼしき少女を見かけた。

 川は一級河川で、きれいに舗装された道路から土手を下りると、広い河原が公園のように整備されている。川とは逆側には丘陵が続き、少し遠くに民家の屋根が見える。 
 車通りは少ないし、商店も無ければ人もいない。そんなところを、ようやく10歳かと見える少女がひとりで歩いているのだから、気になって当然ではないか。しかし、何か事情があってのことかもしれないし、もしや防犯ブザーなどを持っているかもしれない。怪しまれないように、少しずつ距離を縮めていくと、少女がつぶやいている言葉が聞こえてきた。

「楽しいね、嬉しいね、大好き、すみれ、楽しいね、嬉しいね、大好き、すみれ、」

 ゆっくりと歩きながら、少女は哀しげな瞳で河原を見渡し、首を巡らせて丘陵をながめ渡し、つぶやき続けていた。

「大好き、すみれ、楽しいね、嬉しいね」

 近寄って見た少女は、あきらかに何かを探している様子だった。それは

「すみれ」

 少女が、立ち止まった。そして、河原に向けて大声で

「すみれーっ」

 呼んでいるのだ、少女は。すみれという名前のものを。
 また歩き出そうとして、こちらを見た少女の目には、あふれ出しそうな涙があった。

 誰かを探しているの、と尋ねると、それが合図のようにぽろぽろと泣き出した。

「すみれ。あの、ボーダーコリーです。いなくなっちゃったの。でも、私が悪いから、見つけてあげないと」

 ひっくひっくと嗚咽を抑え、肩を震わせながら、少女はそう言った。おそらくは胸の内、頭の中で、ずっとそのすみれというボーダーコリーを想い、自分を責めてきたのだろう。その心があふれ出したような言葉だった。

 丁度、かばんの中に、今まで訪ねていた家でいただいた、ペットボトルのお茶があった。ちょっと座ろうか、と少女に言うと、こくんとうなずき、土手の上の縁石に腰をかけた。少女の目の前で、ボトルの封をぱちんと切って手渡すと、薄く笑ってうなずき、ごく、ごくと喉を鳴らした。
 そして、河原の遠くを見る。

「すぅちゃん、お水、飲んでるかな」

 しばらく黙って隣に座っていると、少女は落ち着いてきたようだった。どこから来たのか、いつからすみれを探しているのか、少しずつ訊いていくと、事情はおおよそ、こんなことらしかった。

 二週間ほど前の暖かな日曜日、少女は母親の車で、ここにすみれを連れて来ていた。すみれは二歳になる元気なメスで、休みの日は、広い場所で運動をさせるのだ。
 その日はたくさんの人が河原に来ていた。バーベキューをしているグループもあった。
 たくさん走って、少し疲れて、車の中で休んでいるとき、すみれはそのグループの方へ歩いていった。
 何がどうなったのかはわからない。グループの人が爆竹のような、大きな音の出るものを突然使い、すみれはそれに驚いて、少女と母のいた車とは逆の方向へ走って行ってしまった。

「お母さんは、すみれはお利口な子だから、すぐ帰って来るよって言ったの。でも、帰ってこなかった」

 グループの人達とは少し距離があったし、だからリードを外していた。それがいけなかった。自分だけ車で休んでいたのもいけなかった。
 少女は、また泣き出した。

「すみれのこと大事にするって、お父さんに約束したのに。すみれがいなくなっちゃって、お父さん悪くなっちゃったらどうしよう」

 少女が泣きながら言うには、父親は二年前から、入退院を繰り返しているのだという。最初の入院が決まったとき、すみれを知人からもらってきた。

「すみれがいれば寂しくないねって。元気になれるいい言葉を、いつもすみれに聞かせてあげてって。さくらとすみれがいつも仲良しで、いつもにこにこしていたら、お父さん必ず元気になって、帰って来られるからって」

 少女の名は、さくらというらしい。
 と、そのとき、遠くからひらめきのように届く言葉があった。

「さくらっ」

 少女には聞こえていない。ただ、泣きじゃくりながら続ける。

「無いものばかり数えて、泣く理由を見つけてちゃだめだって。お父さんは、お母さんとさくらとすみれに、いつもいい言葉を言っていようねって。だから」

 少女は、うう、と喉を詰まらせながら、絞り出すように言った。

「楽しい、嬉しい、大好き、って。忘れないで、って」
「さくらっ」

 再び、響いた言葉。父親か。いや、違う。

 遠くから、走って来るものがある。
 少し土埃を上げながら、まっすぐに。
 おそらくは、あらん限りの力で。

「すぅちゃん」

 少女がつぶやき、二歩、三歩と歩み出す。

「すみれっ」

 走り出した。
 間違いない。疾走してくるのは、ボーダーコリーだ。
 額から口にかけて白く、耳、目の周りは黒。体もほぼ黒く、前足は白だ。
 懸命に、力いっぱい、走って来る。

「すみれっ」

 すみれがさくらに飛びつき、さくらはすみれを抱きしめた。
 はあ、はあっと息を乱しながら、さくらの顔をめちゃくちゃに舐めるすみれ。

 近付いて見ると、すみれの首の周りには血がにじんでいた。首には革の首輪がされており、こすれて毛が抜けている。首輪には鎖がついていて、その先には杭が結ばれたままだった。誰かが、保護してくれていたのだろう。おそらくは、悪気など無く。けれど、すみれにそれがわかるはずがないし、帰りたいのだと伝えることもできない。ただ、必死に、さくらの元を目指して、帰って来たのだ。

「すぅちゃん、すぅちゃん、よかった、大好き、よかった」

 いい言葉が、きっとすみれに届いたのだ。
 ここにいる。探している。待っている。
 すみれといれば、楽しい。嬉しい。
 すみれが、大好き。

 さあ、ふたりを家まで、送って行こう。

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