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真面目=遊び。

今日はコワーキングスペースに行って、その帰りに深緑茶房に寄った。
(そういえば移転するらしいので、移転先を調べとかないと)

お茶の種類を選べて、その解説がカードとして載せられている。
そこに書かれていた言葉を引用する。

「(前略)新しい品種ではなく、製法でもっと遊びたかった。(後略)」

お茶のことが全く分からない私に、この文章は、製造者の方のこだわりやストイックな姿勢を感じさせてくれたのだが、今回の本題はそこではない。
「遊」ぶ、の部分だ。

つまり、こだわることやストイックでいることは、遊びそのものであり、こだわったりストイックでいたり研究や研鑽を重ねるのは遊ぶためである、というイメージが垣間見えるのである。
それが、今日の私にすごく鮮烈に響いた。

ここ最近、学問というものになんだか嫌気がさしていたのだ(いや、例の学術会議は全く関係ない)。
正しさとか妥当性とか、正確さとか真実とか、場合によっては正義とか、そういうものにうんざりしていた。
特に、「正しくない」「妥当でない」「正確でない」「真実でない」「間違っている」という物事に対して批判や批評を加えたり、ひどいときは罵倒したり晒し上げたりする、という行為が好きではない。
何より、突き詰めたりこだわったり真面目にやったりストイックな姿勢でいる目的が、「批判されないため」であるような時は本当に嫌だ。
誰がそうというわけではなく、私も含めいろんな人が、理論武装をせざるを得ないようなそういう空気感が嫌だ。

でも、突き詰めたりこだわったり真面目にやったりストイックな姿勢でいる目的が、「遊び」のためだったらどうだろう。
自分が遊ぶために、真面目に突き詰める、という姿勢であったなら。

で、よく言われる台詞をふと思い出すのだ。
「仕事でやってるんだから真面目にやれ。遊びじゃないんだ」
こういう台詞の背景には、真面目と遊びが真逆の概念として捉えられていると思う。つまり、遊び=不真面目・ちゃんとやらない・てきとー(適当、ではなくてきとー)みたいな方程式を私は感じる。

でも、そうじゃないのだとしたら。

真面目であることが、そのまま遊びであったなら。

遊ぶことこそ真面目にやるのだとしたら。

そして、他人に批判されることを考慮なんてしないのだとしたら。
自分のためだけにくそ真面目に遊ぶのだとしたら。
それほど幸せな世界はない。

ひょっとしたら、私はそういう世界(というか、自分の捉え方の話なんですけど)を目指せばいいのかもという気がしてくる。

学問だって、もちろん創作だって、もとをただせば「楽しい遊び」であるはずなのだ。
私はそれを忘れていた。

誰かに批判されたり批評されたり悪口を言われることを恐れて、恐怖や緊張感にさいなまれてしまったり、自ら「楽しい遊び」を放棄したりしてしまうのは、悲しいことだ。

人間は遊ぶために生まれてきた、という話も聞いたことがあるし。
放棄するのは恐怖や緊張感をこそ、であって、楽しい遊びや楽しい遊びであること、ではない。

今日は外出して良かった。

(ところで電車の中で、プロフェッショナル=お金をもらって仕事する人、という価値観にも疑問を抱き始めたのだが、それは今回の話からは少しずれるのでまたいずれ。)

あなたの気持ちが、巡り巡ってやがてあなたの元へと還りますように。