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「No.19」「ただの船の絵じゃない!」狩野内膳の《南蛮屏風》

こんにちは!かずさです!

2日に1回の投稿なら、もっと余裕をもって書けるようになるのかなと思っていたのですが、結局1日目は特に何も書かずに2日目に一気に書いているので、あまり忙しさは変わらないなと思ったりしています。

こういうところがちゃんと出来るようになると、大学のレポートももっと準備をして書けるようになると思うのですが…。なかなか難しいですね笑

さて、私は趣味で考古学者の方のTwitterをフォローしているのですが、水中考古学者の山舩先生がGW中の授業の動画をYouTubeにアップロードされていたので、ご紹介します。

まあ、これを紹介したいというのが今日の主旨でもあるので、この動画を見てしまえば私の(紙のように薄い)紹介など無いのも同然なのですが…

(先生の家の犬も出てきます。かわいいです)

作品紹介

今回の作品は、狩野内膳(ないぜん)の《南蛮屏風》です。

右隻 安土桃山時代(16世紀末-17世紀初め) 紙本金地着色 各154.5㎝×363.2㎝ 六曲一双 神戸市立博物館蔵

上の画像は右隻です。上の動画の中でもありましたが、キリスト教の教会、ヨーロッパ人(又はヨーロッパの装束)と南蛮船が描かれています。それらは、細かく描かれているのですが、その他の景色は金地の雲に隠れて、地面なのか雲なのか分からない曖昧な感じになっています。

また、近くによって見るとポルトガルの商人や宣教師などの一行を迎える宣教師たちや、その人々の物珍しさに商店から顔をのぞかせる日本人の姿が描かれています。賑やかな様子が伝わってきますよね。

狩野内膳

この作品を描いた狩野内膳(1570-1616)は、桃山時代から江戸時代にかけて活躍した画家です。荒木村重の家臣の子として生まれました。しかし、村重は信長によって滅ぼされてしまったので、内膳は根本密厳院に入ったのち、還俗して狩野永徳の父、狩野松栄に画を学びました。

(下のリンクは狩野松栄の作品、《琴棋書画図屏風》の紹介です。)

ちなみに、同時代に岩佐又兵衛(1578-1650)という人がいますが、こちらは村重の子供です。内膳と同じく後に画家になっています。(なぜみんな画家になるのか…。)

1580年代後半に、内膳は狩野氏を称することを許され、豊臣秀吉の支持を得て豊臣家の絵事を務めました。

秀吉の死後、七回忌に臨時大祭が行われたのですが、この時に内膳は《豊国祭礼図屏風》を制作しています。

慶長9年(1604年) 左隻 豊国神社宝物館蔵

この作品は公式記録とも言えるもので、当時の京の様子が生き生きと描かれ、豊臣家の威光を表現しています。

南蛮屏風と初期洋風画

さて天文18年(1549年)のザビエル来航後、イエズス会の宣教師たちなどによってヨーロッパのものや文化が入って来たのですが、これは南蛮蒔絵など新しい意匠を生み出しました。

絵画においては、この影響で「南蛮屏風」と「初期洋風画」が登場します。

南蛮屏風は上に載せた作品のことですが、初期洋風画とはこんな感じです。

《秦西王侯騎馬図屏風》16世紀後半 神戸市立博物館

歴史の教科書の南蛮文化のところでよく出てくる有名な作品です。

これら初期洋風画は、線的遠近法などのヨーロッパの画法を用いて描かれています。イエズス会のセミナリオでの絵画教育によって生まれました。

礼拝に用いるキリスト教主題の作品も多いのですが、キリシタン大名の発注で世俗的な主題のものも描かれました。ヨーロッパからもたらされた粉本(お手本集みたいなもの)などに世俗的な画題が載っていたそうです。

それに対して南蛮屏風は少し違います。ヨーロッパ人の風俗を描こうとしているところは同じかもしれませんが、遠近法などの洋風画で見られる画法は用いられていません。あくまで、日本の伝統的な画法の中で「来航する人々を描く」というものになっています。

少し脱線しますが、去年リスボンに行ったときに「発見のモニュメント」の近くでこんなものを見つけました。

この1541年は、ポルトガル船が豊後について大友宗麟にカボチャの種が送られた年だそうです。

南蛮船と唐船

今回の作品である狩野内膳の《南蛮屏風》は、山舩先生の解説の通り秀吉のバテレン追放令の状況下で描かれたものという説が最もだと思います。(秀吉が受け取ったとされるアラビア由来の馬が描かれているため)

しかし、この「南蛮屏風」という主題は、江戸時代に入った後も描かれています。当時の人々は、今ほど作品にオリジナリティを求めている訳ではないですが、90点以上もあるとなると、この作品のテーマ自体に何か大きな意味があったのではないでしょうか。

実は、南蛮屏風の多くは北陸路の廻船問屋に多く伝来していて、室町中期から描かれた招福をテーマに描かれた「唐船図」との関係があるとされています。

残念ながら、唐船図の画像は見つけられなかったのですが、「船が福を運んで来る」というイメージは、現在の私たちにとっても「七福神」として馴染みのあるものですよね。

動画の中で「船の形がおかしい」という指摘がありましたが、これはヨーロッパからもたらされた地図の影響も凄くあると思うのですが、「招福」というイメージは船の積載物がもたらす富のイメージで船の形はある意味どうでもいい部分があったのではないでしょうか。(これは私の勝手な想像です笑)

地図の図像も、これに関連する粉本のようなものがどれだけ出回っていたのかとか考えなければならないし、描いた絵師がどのような状況にいたのか(地図や粉本を見ることが出来たのかなど)についても考えなければならないので、大変な研究ですよね…

今回はおすすめの動画に絡めた紹介をしてみましたが、いかがでしたでしょうか?山舩先生以外でも研究者の方がこのステイホーム期間中にオンラインで面白い企画をしていらっしゃったりするので、ぜひチェックしてみてくださいね!

次回は、ヨーロッパのアートを紹介します(o^―^o)

画像は全てパブリック・ドメイン、いらすとやのものを使用しています。

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今回参考にした本、おすすめの本を紹介します!ぜひ、おうち時間に読んでみてください!

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