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『智恵子抄』と"Lemon"の呪いー米津玄師の"Lemon"「今でもあなたは私の光」ー


「今でもあなたは わたしの光」

「 「今でもあなたは わたしの光」ってすげぇなんか「こわっ。」と思うんですよね。俺なんかこんな怖い言葉、書いてたのかという気持ちになったりして」

これは2020年8月23日(日)にTBSラジオで放送された「米津玄師×野木亜紀子「MIU404」対談」で、1998年に放送されたドラマ『アンナチュラル』の主題歌だった“Lemon”について米津玄師さんが語った言葉だ。

アルバム『STRAY SHEEP』を制作時に、聴きかえした時に

「当時作っていたときとは全然違う」

「呪いみたいな曲だな」

とも、思ったという。

「こわっ。」

これは、当時29歳だった米津さんの素直な気持ちの吐露だろう。

“Lemon”の大ヒット以降、社会現象のようになった米津さんは見も知らぬ人々から一方的なそれも熱烈な愛情を向けられている。

それは稀代の天才でスーパースターの「米津玄師」ならばなんてことのないことだろうが、29歳(当時)の徳島で育った普通の若者である米津玄師さんにとっては「こわっ」と言うほかない気味の悪いことだろう。

そして、その“Lemon”から、私が思い出すのは「レモン哀歌」で知られる高村光太郎の『智恵子抄』だ。

チシアンの画いた絵が

まるでそう                             チシアンの画いた絵が                        鶴巻町へ買い物に出るのです(『智恵子抄』「人に」)

『智恵子抄』の冒頭の詩「人に」。

後に最愛の妻となる智恵子と知り合って一年後の明治45年(大正元年 1912年)に、自由で魅力的な智恵子が平凡な結婚をするかもしれないという時に光太郎が書いた詩だ。

「チシアン」はイタリアの画家、ティツィアーノのことで、『聖母被昇天』を始めとする神聖で高貴な女性像を描くことで知られている。

光太郎は智恵子のことを「チシアンの画いた絵」のように「この世ならぬ素晴らしい女性」と思っていたのだ。

にもかからず、大正4年(1915年)から大正11年(1922年)までの間には、智恵子について一編の詩も残されていない。

空白の八年間

新潮文庫の『智恵子抄』には47編の詩と短歌6首が収められている。

『智恵子抄』の最初の詩「人に」が書かれたのは、明治45年(大正元年 1912年)智恵子と出逢った翌年で、最後の詩「報告」は昭和27年(1952年)。その間40年。智恵子が亡くなったのは昭和13年(1938年)だから、死後も10年以上、彼女のことを詩にしていたのだ。

大正3年(1914年)に二人は結婚する。

その翌年から、光太郎は智恵子の詩をぱたりと書かなくなる。

そして、また、光太郎が智恵子の詩を書き始めたのはいつかというと、それは

智恵子が狂気を得た後なのである。

結婚してから、智恵子が狂気を得るまでの「空白の八年間」、何が二人の間にあったかは、二人の心のうちは誰も知ることはできない。

けれど、私は光太郎の智恵子への幻想が智恵子を狂わした気がしてならない。

「チシアンの画いた絵」

絵の様に、人は美しいまま生きていくことはできない。

特に結婚して、一緒に生活を始めれば、見たくない、見せたくない部分が否が応でも目に入ってくる。

例え、素晴らしく素敵な女性であったろう智恵子にしても。

光太郎は自分の智恵子に対する幻想を破られるのを良しとせず、それに智恵子は疲れてしまったのではないだろうか。

『智恵子抄』の「抄」は「ぬきがきすること」という意味がある。あくまで「智恵子の一部を描いたもの」ということなのだ。

光太郎が理想とする美しい智恵子ばかり描かれる『智恵子抄』。光太郎が題名を『智恵子』にせずに、あえて「抄」を付けたのは、彼の芸術家としての良心だったのかもしれない。

結婚までの詩は16編。

そして、智恵子の死にゆくさまを描いた「レモン哀歌」から彼女が死んだあとのことを詩にしたのも、ちょうど16編。

『智恵子抄』は、生身の「智恵子」ではななく、光太郎が理想化した「智恵子」を描いた作品なのかもしれない。

言葉は悪いけれでも、相手が死んでしまえば、もう自分の幻想を壊されることはないのだ。自分の中で、どうとでも美化することができる。

そして、実際会うことの叶わない米津玄師さんにも同じことがいえる。

そして、亡くなった人、手の届かない人からは自分の抱くその人への思いを、その人本人から拒否されることもないのだ。

“Lemon”の呪い

“Lemon”の大ヒットにより、米津さんを取り巻く環境は大きく変わったという。有名になったにも関わらず、あまりメディアに出ないため「ミステリアス」という言葉でくくられることもある。

「ミステリアス」と思われるのは、本人のことがよくわからないからで、それによって、それだからこそ、米津さんを「この世ならぬ素晴らしい人」と理想化するようなこともあると思う。

“Lemon”により、米津さんは自分を直接知らない人たちから、美しい、けれど、その人の手前勝手な感情も向けられるようになった。

「今でもあなたは私の光」“Lemon”

この美しい言葉は、“Lemon”制作中に亡くなられたお祖父さまー米津さんが大好きだったというーに向けられた言葉だった。

それが、2年経って自分を直接知らない人たちから米津さん本人に向けられる言葉となった。

そのため、“Lemon”を「当時作っていたときとは全然違う」「呪いみたいな曲だな」と思うようになったのではないだろうか?

そして、『智恵子抄』の中の智恵子に対する賛辞の言葉。

相手を「この世ならぬ素晴らしい人」と理想化してしまうこと、そして、相手に向ける美しい言葉。

それがどんなに美しい言葉だとしても、それは相手の心を縛る「呪い」と化すのかもしれない。

参考文献

「高村光太郎のフェミニズム」 駒尺喜美 朝日新聞社

「智恵子抄」高村光太郎 新潮社

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