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シンプル且つ最難関な幸せと向き合う

おはようございます。こんにちは。こんばんは。
今日は人が生きている中で、シンプルでありながらも忘れがちで、向き合うととてつもなく難しい"自分の幸せ"について備忘録を残します。

忘れていた自分の幸せ

なぜこのテーマを採用したかというと、人間はあまりにも"自分の幸せ"と向き合わ無さすぎだなあ……と思ったからです。

人生を歩む中で、人は誰しも幸せになりたいはずなのに幸せになる方法を考えれていない。
それは私も含めて。。。

思い返すと人生で「自分の幸せってなんだろう?」と本気で考えたことがびっくりするほどありません。
当たり前のように幸せを考えているようで、その実全く向き合えていない人が多いと確信しています。

それにはいくつかカラクリがあると思っています。

幸せと向き合えない理由

至極当たり前である幸せになりたいという欲望。
しかし、それを言語化できてない。。
それには大きく2つほど理由がある気がします。

①人間が"社会生物"であるから。
②幸せの粒度感のズレ

まず、①について
人間は社会の中で生きざるを得ない生物ではありますが、その社会にあまりに染まってしまう事が大きな原因だと思っています。
具体的には、会社の上司、同僚・友人、家庭などです。例えば、
上司からは
「なんも考えんとやることやってたらその内自分の道が見えてくる!」
「早い内からローンを組んでマイホームを…」「仕事終わりは飲み会で、キャバクラで、、日々のストレスを解消!」

友人・同僚からは
「給料が良いからあの会社に…」
「モテるからあの企業に…」

家庭では
「生活があるから節約節約…」
「少しでも給料upよ!!」

1つくらい言われたことありますよね?w

日常茶飯事な上記のエピソードがそのベクトルに人を固定してしまう。
環境が人を染めてしまう。
その環境では"普通"過ぎることなので、いつの間にかこの"普通"を前提に自分の人生を歩んでしまう。
この"普通"を前提に、許容して、日常と考えて自分と向き合っても本当の自分は顔を出さない。

「社会的尺度」に自分の視覚のピントが合わさってしまうこの状態が、"自分の幸せ"と向き合うスタンスを失わせます。

続いて、②幸せの粒度感のズレ、です。
これは、①が前提として②の原因となっていることもありますが、自分と本気で向き合っているつもりが実は幸せの1要素でしかないものしか見れていない、という事が多々あると思っています。

例えば、
仕事終わりの1杯があれば幸せだ。という人がいたとしましょう。
これは勿論、気持ちは凄くわかるし、人によっては本当にそれが幸せの大きな要素であるかも知れません。

しかし、仕事が嫌すぎて、日常が辛いが故に仕事終わりのビールの時間しか癒しの時間がない、ということが根本にあるケースを多々見かけます。

何が言いたいかというと、本当に自分の幸せな瞬間と向き合っているのではなく、日常という前提の中で自分が幸せと思う瞬間を捉えているに過ぎない、という事です。
つまり、幸せの要素分解ができていないことにあるのでは無いかと思います。

「ん?そもそも今の仕事が違っていたら幸せと思っていたことが根底から覆る可能性があるぞ…」という事などあるのでは、という話です。
※仕事だけに限った話ではありませんが…

これについては、ただシンプルに「自分の幸せとは?」を真剣に考える、が対応策だと思っています。

日常的に感覚的に至福、癒しといったものを感じる瞬間がありますが、もっと抽象度を上げた、幸せとは?から考えなければ本当に自分が幸せになる為の道筋は見えてこないはずです。

もちろん、そういった癒しなども自分の幸せの一部ではありますが、ボトムアップではなくトップダウンで真摯に幸せと向き合うことが大切ですねえ。

日々の当たり前や常識に邪魔されて、あるいはただ単に時間が無くて"自分の幸せ"と向き合えている人は限りなく少数だと感じます。

私もそうだったので最近は自分と向き合う時間を意識的に作っています!

がんばります!

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