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SNSのつぶやきさえも作品になる【最果タヒ】

タイムラインのなかで引っかかった言葉 

「戦争なんて嫌に決まってんだろ 最悪だよもう」
Twitterに流れてきた呟きを即座にいいねした。
時はロシアによるウクライナへの侵攻が始まった時分。
ただの呟きだ。
なんならみんな考えていて、みんなが口にしそうな言葉である。
でもどうしようもなく美しさを感じた。
彼女にとってはただの表明かもしれない。
それでも。

カタカナでタヒなんて、「死」のスラングだ

いつ知ったかなんて覚えていない。
横浜美術館やTittle2階の展示も太田市美術館でも見た。
その度に降ってくるような言葉や取り留めのない言葉の断片になんど心が軽くなっただろう。
浅はかにもとれる軽口にも似た言葉遣いや、読み方によっては難しく捉えられそうな配列が、スッと心にはいっていったり、ずっと澱んで残ったり。
彼女の言葉はいくつもの顔をもつ。

横浜美術館での展示〈最果タヒ 詩の展示〉
太田市美術館図書館にて〈ことばをながめる ことばとあるく〉

時には厭世的な言葉を使う。
死を自分の身近に置いているような表現をする。
わたしは死が怖い。
そんな死を意識させる彼女の言葉が怖いこともある、けれど、怖いものの中にもどうしようもなく惹かれるものもある。



死者は星になる。
だから、きみが死んだ時ほど、夜空は美しいのだろうし、
ぼくは、それを少しだけ、期待している。
きみが好きです。
死ぬこともあるのだという、その事実がとても好きです。
「望遠鏡の詩」(抜粋)


言葉を売ること

常々言葉を生み出して生業にしている方がすごいと感じる。
作品をこんなふうにペーストして拡散される世の中であって、本にせずとも売る、詩人や歌人、コピーライターのように生業を成立させることはとても難しいことは容易に想像できる。
絵画や彫刻のように実体が存在しない。
誰かのために詩を販売することはあっても、買切りのようなかたちだから生み出し続けねばならない。
いつか、わたしのために言葉を書いてもらって、きちんとお金を支払うことが夢のひとつだ。

『死んでしまう系のぼくらに』最果タヒ 
デザイン:佐々木俊
サイン本なのはささやかな自慢


指が語る

スマホの画面のフリックで文字を打つ。
打つという表現はもはやふさわしくはないだろう。
彼女もそうして指を滑らせて詩を書いている。
そう思うと、わたしの指が語る言葉と彼女の言葉の差を考えてしまう。
同じ指なのに。

彼女の指から生まれたただの表明が、わたしの心を軽くする。
わたしもそう思うよ、以外の気持ちになる。
こんなにも鮮やかに端的に美しく表明できるのか。
乱暴な言葉遣いでさえ、その気持ちの強さを表現している。


私達のこのセンチメンタルな痛みが、疼きが、
どうかただの性欲だなんて呼ばれませんように。
昔、本で読んだ憂鬱という文字で、かたどられますように。
夜のように私達の心は暗く深く、才能豊かであるように。
くずのようだと友を見ています。
軽蔑こそが、私達の栄養。
「文庫の詩」



作家紹介

■最果タヒ
1986年兵庫県生まれ

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