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自己肯定感の低さ~お手伝いと勉強~

はじめに

 自己肯定感低めの私は、今日もまたしょうもないことに落ち込み、自分の心を痛めつけている。

 そもそも、なぜ私はこんなにも自己肯定感が低いのだろうか。自分が形成された過去から考えていく。

お手伝い

 物心がついたころから私は洗濯物を取り入れてたたみ、ほうきで床をはいたりしていた。10歳にもならない子どものお手伝いは限られているが、それでも当時の私なりに頑張って働いていた。このおかげか、今は片付けや掃除を嫌と感じず、むしろ好きなことの1つに入るくらい何の苦も無くできる。

 当時はなぜこんなにも頑張ってお手伝いをしていたのか…。これで数十円のお小遣いがもらえたことも1つだと思う。だが、「ありがとう、助かったわ!」と言ってもらえるからお手伝いをがんばっていた。

 第一感謝されて嫌な人間はいない。幼少期の私もまたありがとうという言葉の重みをうすうす感じていたのかもしれない。こうして密かに笑みを浮かべた後、見渡すとごみ1つ落ちていないきれいな床や、かごにきれいにたたんで並べてある衣服が置いてある。この環境を自分が作った、そしてく役に立ったんだと強く実感できていた。

勉強

 小学生の時には、勉強は好きなタイプの人間だった。手をあげたり、宿題で大きな花丸をもらったり、100点をとったテストを持って帰ってきたりするなど、勉強が「できる」と自覚できるほど楽しんでいたのだった。

 ここでも、頑張って勉強すると親や先生、周囲の友達がその頑張りを認め、中には羨ましいとさえ思ってくれる人がいるという実感から、周囲が私を認めてくれるエネルギーが自己肯定感につながっていた。

 また、花丸をもらったり、100点をとったりするなど、その頑張りが視覚的に評価してくれるところから自分への自信が生まれていた。

趣味は…


 時は過ぎ、大学生活開始あたり、初対面の人から「趣味は何?」「休みの日は何して過ごしてるの?」などと聞かれることが多くなった。

 このころの私は、それらの質問への答えを持ち合わせていなかった。「ずっと寝てて…でも、休みの日は絶対に掃除機をかけて部屋をきれいにして…」なんて答えは求められているオリジナルの答えではない。このころは日々これらの質問に対する答えを探し求めていた。

 そういえば…これまで真面目にしてきた「お手伝い(家事)」も「勉強」も、今ではできて当たり前のフェーズに入っている。当たり前だから、誰も褒めてくれないし、勉強で見える数値的評価されることも少なくなり、その評価もさほど重要視されるものではない。

 こうして私は他者から頑張りを認めてもらえることが減った。そして、他者からの耳障りの良い声を求めるようになったのであった。

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