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徒然①

「大人になれば敵なんていなくなるから自然と丸くなるよ」と言っていた奴はその時すでに大人だったはずなのにめちゃくちゃ尖っていた気がする。それでも大人になったら目立った敵はいなくなったし、好きの反対はもっともっと無関心になった。人だけじゃない、流行りも、ニュースも、好きじゃないものが目に入ることはあっても、電車の中で何を考えていたかなんてお昼ご飯の頃にはわすれているのだ。
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手取り20万弱で10万円近い家賃と5万円の奨学金を毎月返済しながら満員電車に揺られている人たちに、もっと弱者のことを考えろ!と言ったところでお前らはお気楽で良いなとなるだけなのに、余裕のある人たちは遠くの何かやあまり多くない何かに目を向ける余裕はあっても、比較的目の前にたくさんいるであろう人間の背景を想像する力はなぜか持ち合わせていないことが多い。いや、そういう人間の目の前にはそもそもそういう普通が生息していないのだろうか。もしそうならマサラタウンから出直してほしいところであるが、そもそも最初に選べるポケモンがコイキングとパルキアくらい違う場合もあるからもうどうしようもない。(1997年生まれダイパ世代)(親ガチャって言葉否定する奴だいたい家庭環境良好)
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私は今は生活に苦しんでいないけれど、いわゆる偉い人たちに求めることはハゲ治療より避妊薬を保険適応にしろとか、レジ袋はやっぱタダにしてほしい進次郎なにしてくれてんねんとか、なるべく戦争はしないでほしいとか、税金はもうちょっと下げてほしいな(or俺らの世代にも還元してほしいな)とか、社会に向けられる関心はまだまだその程度しかない。そのくらい、自分のことで割と精一杯なのだ。
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そりゃ、ウミガメがプラスチックに殺されない世の中になったり、遠い国の子どもたちも温かい家で死なない程度のご飯が出てくる暮らしができたりする方が良いに決まっている。でもそれを目の前で叫ばれてもイマイチぴんとこないのは、それを叫ぶ人の多くがどこか遠くの架空の敵に向かって叫んでいるように見えるからな気がする。
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それぞれに生活があって、一人一人の価値観があって、中には人を殺すことさえも正義だと言う人間がいる中で、そういう意見まで包括することが多様性なのか、はたまた「倫理観」や「法律」といったある程度の基準の上で内側から広げていくものが多様性なのか、分からなくなってきている。
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あらゆるものへの意見が多様化するほど、そしてそれがSNSの普及で可視化されればされるほど、どうしようもなく窮屈に見えてしまうことは、本当の意味で便利になっているのか、なんとなく気持ち悪さを覚えてしまう。無意識にしたり、されたり、なんならアルゴリズムで押し付けられてしまっているかもしれない正解たちの中からニュートラルな自分の意見を導き出すことは、そう簡単ではないし、むしろ立場が明確でない方が自然なような気がする。意識高い系がキモいと言われるのは、結局のところその立ち位置を明確にすることの窮屈さを押し付けられているように思わせる言動によるところが大きい。
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大人になれば、すれ違う情報や人間が溢れかえる分、いろんなものを無視したり拒絶したり決めつけたりすることが上手くなる。これはきっと、誰かを「敵にしない」技術なのかもしれないけど、敵にしない技術が発達した結果、自分が無意識に選んだものと今すでに持っている知見だけでいろんなものを判断するようになっている。それは"大人になっている"のではなく最終的に幼くなっているんじゃなかろうか。今自分にないものを受け入れる素直さは、大人になると失われやすい。
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ノイジーマイノリティにならないように声を上げるのは難しいけれど、マジョリティがサイレントである限り、そしてそれが「大人」の「マナー」や「かっこよさ」である限り、本来のマジョリティであるはずのあらゆる日常はスルーされてしまうんだろうなあと、夜な夜な思うわけです。

※インスタに載せたらほぼnoteの文量になったからこちらにもアーカイブ。たまにこういう毒にも薬にもないものを載せていきたい。

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