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鉄と大島紬(奄美大島取材日記3)

CAMPonPARADE編集部です。

以前、奄美大島の土壌の正体が鉄だったと書いた。栄養分が少なく農作物が育ちにくい土壌、雨が多い亜熱帯気候で土の中の鉄分だけが残り、空気に触れて赤くなった土。これだけ聞くと奄美が貧しい土地に思えるが、実はこの土が世界に誇る伝統工芸品を生み出していた。一反200万は下らないという織物「大島紬」だ。この織物最大の特徴ともいえる黒にこそ奄美大島の鉄の土壌が大きく関係しているという。その工程を見せてもらえるというので、さっそく取材に行ってみた。

自然の素材から世界最高級が生まれる

織物といっても単に糸を丁寧に織っただけではなく、この大島袖というのは気が遠くなるほどの行程を経て作られる。中でも一番要となる泥染め無くして大島紬は語れないだろう。工房にお邪魔すると、ちょうど染め上げる前の絹糸の糊を丁寧に水で洗い、ほどいていた。

この泥染は、織った反を染めるのではなく、反を織るための糸を染める工程だ。まずはこのタンニンが多く含まれるテーチ木(別名シャリンバイ)という木をチップにして煮出した染液に幾度も幾度も漬け込み茶褐色に染め上げる。この工程だけで20回は繰り返すそうだ。

そしてここから泥染めと言われる泥が登場する。奄美大島の鉄が多い土壌を掘ってここに水を加えていわゆる泥の田んぼの状態にする。ここに先ほどテーチ木で染めた茶褐色の布を漬ける。こうすることでテーチ木に含まれるタンニン酸が泥に多く含まれる鉄を酸化させて黒くなるのだ。これを1週間も繰り返すと深い黒に染まっていくのだ。雨が降ると水で鉄分が薄まってしまう、その時はソテツの葉を浮かべると鉄が蘇るのだ。どこかで聞いた話?そうだ、前回書いたソテツの話だ。蘇る鉄と書いて蘇鉄(ソテツ)。

今の時代でも、自然を理解して機械を使わずに人間の手で感覚を大切にして作っている光景を見て、いたく感動してしまう。都会にいると絶対に触れられない光景だもの。自分たちの住む土地のことを理解して活かす知恵って、現代人の私たちはどれくらい持っているだろう?こうやって自分の目で見て覚えたことは一生忘れない、大島紬を世界の三大織物という認識からはるかに尊いものだと思わせてくれた。

どうやってこんな工程を生み出したのだろう

感動したのもつかの間、果たして誰がどうやってこのテーチ木×鉄の泥染めなんて思いついたのだろうか。大島紬の歴史をだどってみると、古墳時代(400年頃)から日本では養蚕があったとされていたので、絹の織物はあったのだろう。飛鳥時代には大島紬の基礎となるテーチ木(車輪梅)で染めた織物が出始める。文献に初めて大島袖が登場したのもこの頃、奈良東大寺に「南の島より褐色の織物が献上された」とある。ところがまだこの時点では泥染めの黒は出てこない。江戸時代、奄美大島が薩摩藩の統治下にあった時、突然褐色から黒に代わる瞬間がやってくる。薩摩藩藩主による「紬着用禁止令」が出されたのだ。庶民は大島紬を着てはいけない、その代わり献上品として生産するのはOKという例。奄美大島から黒糖も搾取したうえ、大島袖までも取り上げようというのだ。どれだけ薩摩藩の懐が厳しかったかは前回書いたとおり。この時、ある女性が藩の役人から大島紬を水田に隠したところ、黒く染まったというのが今の大島袖が黒くなった始まりだと言われている。たまたま、黒く染まったのだ。この後、明治に入って商品化されるようになって広まっていった。

今では世界三大織物と称されるほどになったが、世界でも絹織物はたくさんあるのに、なぜペルシャ絨毯とタペストリーと並んで大島紬が名を連ねているのかというと、絹織物の中でもこの繊細な作業工程に勝る芸術品は類を見ないからだという。泥染めを含むあまりにも細かい作業を手作業で行いまさに作る過程そもそもが最高の工芸品というわけだ。この芸術品が世に広まるきっかけとなったのが、奇しくも奄美大島の苦い歴史が絡んでいようとは思いもしなかった。この自然と人が織りなす美しい大島紬を後世に残してほしいと思った。

次回は、「マングローブの不思議」についてです。

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