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利他を量子物理と仏教で考える

3日前に、YouTuberのなおきまんさんが上げられていた動画を今日たまたま視聴したのだが、あまりの素晴らしさにご紹介したくなったので、記事を書く。
そういえば、一カ月前に利他の精神を精神論じゃなくて量子物理論でやりたいな、と思って中途半端になっていたので、ついでにそれも完結させちゃおう。Ni強めな人間の頭の中を覗いていってください。

とりあえず、とても分かりやすい解説動画を作っていただいたので見ていただいたら早いなーと思うのだが、様々な理論を猛スピードで解説していらっしゃるので、私が主張したいことに使えそうな部分をかいつまんでまとめさせて頂く。

とりあえず、やはり一番の軸になるのは不確定性原理である。
デカルトは『我思う、故に我あり』と信じたかったようだが、二重スリット実験によって、彼が信じた自己さえも他者による観測によってのみ確定するのだ、と証明されてしまった。
まあ、彼が、自己というのは体を構成する全ての素粒子のことであり、考えるという行為はその全ての素粒子の反応によって起きた観測の集合である、と主張するなら、うーん、まあ通るのかもしれない。
でも、その素粒子を集めさせ、自己として完成させているのも、やっぱり他者による観測の結果なのだから、結論、やっぱり私たちは他者なしには存在すらままならないのだ。

ここでいう他者というのは、何も人間のことを指しているのではない。素粒子で出来た全てのものを指している。ナノの世界から宇宙の端っこまで、私たちは素粒子で成り立っている。
その素粒子が観測し、観測され、確定し、反応することによってのみ、私たちは存在している。
逆に、それがなければ私たちは虚無だ。存在していないのだ。全ては不確定で定まらず、存在出来ない。
仏教でいう、縁であり、色即是空という概念である。

あとは、なおきまんさんがおっしゃっているように、自我というものは相対的にしか成り立たないから、というのも大きい。他人と関わることでしか、自分というものは確立しない。これで誰に対しても、存在してくれているだけで自分にメリットを与えてくれているのだ、と認識出来る。

この二つが、私が他者に生かされているのだ、と実感がする理由であり、私にとっての他者に向けての感謝や慈愛に繋がっていくわけです。

脳内、空想だらけなんで、どこまで一般ウケするのか自信ないですが一応書きます。
今は物理世界主体だけれど、人間の知力が追いつけば必ず情報宇宙主体の世界になる。
情報宇宙の中での物理学的なものが確立していくと思います。
愛や倫理などには必ずエネルギーがあり、その逆のマイナスなエネルギーもしかり。それらは必ず一定の物理法則で世界に影響し、変化を起こし続けていると、精神論ではなく物理学的に信じているのです。

この記事を読んで、なんのこっちゃ?でも面白そうと思われた方の深掘り動画はこちら。


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