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普通の人がフィルムに思い出を残せるようになった頃、写真は失敗するのは普通のことだった

カメラが一般家庭で持てるようになり始めた1950年から1960年代始め頃、まだEE(自動露出)が少なく全部機械式で手動で撮らなければならない頃でも観光旅行や修学旅行にカメラを持っている様子が当時の集合写真に写っている。
当時フィルムの感度はiso100程度の低感度で露出もピントももちろん手動。絞り値やシャッター速度の設定などの露光値は露出計で測るかフィルムメーカーが箱の裏などに印刷していた露出の数字を参考にするか、全くの「感(カン)」で撮影しているから、露出アンダーやオーバー、ピンボケ、手ブレが普通。 フィルム1本の枚数も12枚、20枚だったのでちゃんと写ってるのは数枚もあれば成功。それが半分以上写っていれば「XXさん写真上手いね」と言われたであろう。全部ちゃんと写ってれば撮影が職業にできたかもしれない。 それが、今では誰が撮ってもちゃんと写るのが普通で失敗したらその場で消去するからその時の苦い思い出が記憶にすら残らない。 そこから「失敗は無駄なこと」という時代になっている空気が生まれている。

しかしほんとうに失敗が無駄なのか?と思い返せば、どうなんだろう? 失敗しないためにどうしたらいいか?みんな工夫して、失敗したら次はこうやって失敗しないようにしようと、成功のイメージを想像して挑戦する。
結果、思った写真に近づいたり、いい写真が撮れると嬉しいし、そこで得た経験は自分の血となり肉となる。

今はスマホ以外の写真撮影はデジタルカメラが主流だから、それならばデジタルカメラでマニュアル撮影すれば同じことか?
そう言われると、たしかに効率的に学ぶことができるけれど、根本的に思考するインターバルが短いし、失敗はすぐに消すし、モノ(紙やフィルム)として残ることもないので見返すこともなく忘れてしまう。 忘れることは良いことだけど、失敗した痛みがない経験は割りと希薄…
マニュアルのフィルムカメラを使うにあたってより確実な線を狙うならデジタルカメラで露出感覚を掴んでフィルム撮影に臨めば、失敗は激減する。
とても効率のいい方法である。
ならばデジタルカメラで練習せずにいきなりマニュアル操作のフィルムカメラで失敗を繰り返す時間を持つことは無駄なのか?とゆー(汗

今風に言えば、完全機械式フィルムカメラで手動撮影するなんて「マゾ」でしょ?というかもしれないけれど、そこに時間を掛けた学びを覚えたら、たぶん一生忘れない身体ができあがるのでは?と思うのだった。
一度覚えた自転車の乗り方を一生忘れないみたいに。 まぁマゾですねwww

しかし、あの頃(機械式マニュアルカメラしかなかった頃)の失敗写真は、あれから数十年以上時を過ごした今、本当に失敗写真なのだろうか?
モノやコトの価値観はどんどん変わっていっている。写真もそうだ。
スマホがカメラに代って誰でも日常的に写真を撮って、失敗したらすぐに消して無かったことにできる現在になった。そんな背景でフィルムカメラで撮ってみたいという新しい世代にとって、「ピンボケ」「露出オーバー」「ゴースト」「カメラ不調の光線漏れ」など過去の価値だったら「失敗だな」とプリントをゴミ箱に放り込んでいたであろうそれらの写真が新鮮に感じられている。
偶然の産物は「エモい」、つまり失敗のない世界(過去からしたら異世界)にてそれは感動に繋がる一瞬の描写なのだ。
だから逆にスマホ世代の失敗を恐れるとされても、実は撮ってみると過去の価値観での失敗写真もエモい写真と受け容れるなら「失敗」はそれほど多くない。たぶん昔「失敗」と思ったより成功の打率は高いのでは?とフィルムから写真撮ってた私は、思っちゃったりするのだった。

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