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AIについてのトンチンカンな思い

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」これは平家物語の冒頭。
“やがてAIが人間に取って代わり、近い将来人間の栄華が崩れ去る…”
と、言いたくて持ち出したフレーズではありません。何故いつも同じ音で鳴る鐘の声が諸行無常に響くのか?こっちの方です。

この何故にはあまりにもバカバカしい響きあり。そう答えは単純、同じ鐘の響きでも、悲しい気持ちで聴けば悲しく響くし、楽しい気持ちで聴けば楽しく響くだけのこと。つまり受け止め方によって同じ音も違って響くという当たり前の不思議。無機質であるはずの"モノ"に愛着が湧いて擬人化し、うっかりすると名前を付けたりもする。個人差はあるにせよ、使い込んだ"モノ"に繋がりみたいなことを感じたりもあったりで、つまり気の持ちようなのだ。

AIという"モノ"をどう受け止めるのか?

AIには様々な側面があり、そこには不安や恐怖すらもが存在している。
例えば、車の運転で危険に遭遇し、身を守る一瞬の判断でハンドルを切り歩行者を犠牲にしてしまったとする。その後犠牲者に対して罪の意識が起こり身を守る一瞬の判断を生涯後悔し続ける…
しかしその一瞬の判断を良しとして、運転者の安全を優先する自動運転をAIにプログラムしたとする。すると、
危険に遭遇したAIは躊躇なくに歩行者を轢くことができてしまうのでは?
そんなプログラムはできないとなればAIは躊躇なくあなたを犠牲にできるのでは?
これがAIってものなのかと不気味に思う。トンチンカンかな?

今現在世界中の人々がAIの正体が分からず模索しているように見える。でも、
気持ちの持ち方で鐘の響きが変わるように、愛着によって"モノ"が擬人化されるように、AIが生成しモノに感激し、触発され、心が揺れることが確かにあるから、不安や恐怖を想像してもAIには人間を成熟させる力があると爽やかに思いたいんです(どっちやねん)。トンチンカンPARTⅡ。


井上陽水の「5月の別れ」は、5月という季節に別れを歌った曲です。歌詞には、夜空を見上げて星を眺めたり、レタスの芽が芽生える様子が描かれています。この曲は、青春時代に別れを迎えた人々にとって、切ない思い出を呼び起こすものとして親しまれています。
「レタス」という言葉が出てくる箇所は、「星の降る暗がりでレタスの芽がめばえて」”という部分です。この歌詞からは、新しい命や希望が生まれるという印象を受けます”

この文章は、
“井上陽水の「5月の別れ」という曲に「レタス」の歌詞が出てきます。これは聴く人にどんな印象を与えるものですか?”
という質問に対するAIからの回答。無駄のない的確な文章であるのはもちろんのこと、この文章が事務的な冷たさに覆われていないところが素晴らしいと感じませんか?

AIは、私を刺激し、変化させ、変化する楽しみをもたらしてくれる。そんな"モノ"であってほしいと祈るばかりです。

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